昨年7月に、古びた写真立てを見つけました。裏を見ましたら、私の亡くなった父親が
キャプションをつけていました。
私のルーツの片方である父親の一族について、小さい頃から繰り返し聞かされていた物語が蘇りました。
まず、昔の65才は、現代の65才より、確実に老けています。
この写真が撮られた昭和31年正月頃、私は満2才でした。
うっすらとした記憶が、断片的ですが、あります。
大きなお屋敷で、表は薬局で、裏に母屋がありました。2階建てだったと思います。
床の間があり、刀が飾ってありました。また欄干には薙刀(なぎなた)が飾ってありました。
厠(トイレ)は別棟になっていて、そこまで丸石が続いていて、用を足したあとには、何というのでしょうね、手洗いの桶から柄杓で水を取って洗う、または空中から金属が下に伸びていて、そこの蛇口を押したら水が出てくるそんな仕掛けがありました。
畳の間がいくつもありました。暖房は火鉢で、眠るときは湯たんぽをいれてもらいました。
店先を掠めるようにして、3輪バスがごろごろと大きな音を立て、砂埃を巻き上げながら通っていました。
2,3軒隣には、「鯨羊羹」を売っているお店もありました。
そんな風景が一瞬に蘇りました。
祖父母は大変に厳しく、凜としていました。
武士の家系であることをたいそう誇りにしておりました。
まあ、私はなんとなく煙たくて、近寄りがたい印象でしたね。
祖父、小早川三省の仕事は、薬局の店主でしたが、以前は旧制広瀬中等学校の校長でした。性根の座った人物で、教え子たちからたいそう慕われていたそうです。
それから偶々祖母と出会い、相思相愛となり、祖母の家に婿養子で入りました。旧姓の弓削家を捨てて、小早川家に婿入りしました。
学校は旧宮崎高等師範(現宮崎大学教育学部)を首席で卒業していました。
しかし、薬局の跡取りになるべく、今度は旧熊本薬学専門学校(現熊本大学薬学部)に学士入学しました。入った時は最高齢で、学年で最後の成績でやっと入学できたとのことです。
でも卒業時は、右総代(首席)だったそうです。
その時の彼のノートが出てきましたが、まるで印刷されているかのような達筆でした。
彼は、立ち泳ぎをしながら弓で川岸の的を射たり、筆で見事な書をするといった文武両道に秀でた人物でした。
背が高く、古式泳法の達人で、柔道は講道館の黒帯だったとのこと。
腕っ節がめっぽう強く、地回りのヤクザさん方も、祖父が通るときは、道を空けていたとのこと。喧嘩の仲裁が特技だったそうです。
もともとは弓削家の三男で、長男は東京帝国大学医学部を卒業、次男は京都帝国大学理学部を卒業、四男は九州帝国大学経済学部を卒業、五男は大阪帝国大学工学部を卒業し、その後鹿児島の獣医学部も卒業していました。
弓削家は、旧高鍋藩の城詰めをしていたとのことで、結筆係だったとのことでした。
今で言えば図書館長とか公文書館館長の家系ですね。
祖父は太平洋戦争勃発時は、50才でした。昭和20年2月から、「神風特攻隊」が組織され、多くの若者が、「赤江地区」(現在一部は宮崎空港になっています)に造られた「海軍航空隊練習場」から飛び立ち、沖縄を目指して飛び立ちました。
祖父は、直立不動で、軍服を着、サーベルを抜いて、彼ら教え子に向かって敬礼したそうです。旧制広瀬中等学校で教えたかつての教え子たちの「死への旅立ち」に向かって、精一杯の真心を捧げたのでした。
教え子たちは、特攻機の両翼をヒラヒラさせながら、太平洋に消えていったのでした。
敗戦後、祖父は腑抜けてしまい、毎日毎日彼らが日本から特攻するために飛び立ち、皆一様に地元の川の上空を飛んでいった、その浜に出ては、釣れない魚を釣るために、竿を投げ入れていたそうです。あたかも失った教え子を救い出せるとでも思っているように、一心不乱に・・。
その光景を毎日付き合わされていた私の父親は忘れられないと言っていました。
「聴けワダツミ(海神)の声を」という小さな本があります。
特攻隊で海の藻屑と消えていった若者たち、多くの俊英たちの特攻機搭乗前の遺言が収められている本ですが、あれを父親は毎年毎年購入して、熟読していました。
わたしも読んでみましたが、涙なくしては読めないです。
今の宮崎空港の片隅に、ひっそりと小さな慰霊塔がありますが、佐土原地区のお寺や護国神社にはもう少しちゃんとした慰霊のための社屋が建立されています。
結果的に祖父が戦争に送り出してしまったかつての教え子たちは、皆、英霊です。
小早川家は佐土原藩(島津家分家)に仕えていた武士で、地元の神社とも関係があったようです。代々神主を輩出しています。
私が家系図を預かっています。丁度関ヶ原の合戦がはじまるだいぶ前に、地元のお寺の過去帳に登場してきます。
小早川隆景(毛利元就の三男)が現在の福岡市東区名島に築いた海城は実用的なお城でした。
彼は関白「豊臣秀吉」から命じられて、筑前(多くは現在の福岡県)城主として赴任したのでした。
朝鮮出兵を豊臣秀吉から命じられ、現在の佐賀県の唐津先に建てられた「名護屋城」はとんでもなく壮麗なお城だったそうですが、このとき、今の広島、岡山を支配していた別の小早川家も出兵していたのかもしれません。大きな屋代跡が発掘されています。
また、現在の長崎県島原市にあります島原城下の武家屋敷には立派な小早川家の邸宅があり、重要文化財として大事にされています。
徳川家康が心底怖れていた「小早川隆景」以外にも、歴史の中に消えていった多くの小早川の猛者がいたのでした。
私の中にもそんな彼らの血が混じっているのだと思います。
祖母の小早川ヨツは、宮崎高等師範を首席で卒業し、その後広島高等師範に内地留学しています。
当時女子のための官立の師範学校は、東京(後のお茶の水大学)と奈良、それに広島の三カ所にしかなかったのでした。
祖母は、向学心に燃えていましたから、当時「女子帝国大学」の構想もあったようなので、更なる高みを目指していたのかもしれません。
後年、私の父の妻になった中村仁子は、この祖母から全く相手にされず、辟易したそうです。「町人の出身で、私立の学校である、尚絅女学校を出た」母を全く無視してはばからなかったそうです。
それくらい、官立(国立)を重んじていたのでした。
でも、中村仁子の母マサは天草下島の造り酒屋の娘でした。この造り酒屋には口伝があります。それは、島原藩の家老をしていた先達が、干拓事業失敗という汚名を松倉重政(2代目城主で、その悪政によって島原の乱が起こりました。江戸幕府によって斬首刑に処されています)に着せられ、一家郎党皆殺しにされたのでした、その時に、産まれたばかりの女児だけを、哀れに思った召使いが密かに島原湾に船を漕ぎ出して、出身地の天草に連れ渡り、代々続く造り酒屋の「養女」にしてもらって匿ったのでした。
その子孫が、マサさんなのでした。ですから、そんな経緯をしっかり言えば、自分も遠くはれっきとした武士の家系だったのよとでも言えば良かったのにと、今ならばそう言えるのですが、公的には罪人として処罰されているのですから、言えなかったのでしょうね。でもその処罰を下したのが、稀代の悪党だった松倉重政なのですがね。
私が産まれたので、ようやく行き来が出たそうですが、それでも関係性は良くなかったのでした。おまけに父の上の三姉妹がとても気位が高く、それぞれ長女、三女は地元の高校の先生をしていましたから、母はさぞかしやりにくかったのではないかと思います。
後年母は、北九州市戸畑区の「戸畑基督教会」の牧師として赴任した父について行きました。
そこには「ハレルヤ幼稚園」という私立の幼稚園があり、父が園長をしていました。父は、熊本薬学専門学校(現在の熊本大学薬学部)を卒業時に、成績が極めて優秀だったそうで、英語と数学と化学の中学、高校の教員免許も取得していたので、そんなことができた訳ですね。それで、母は「副園長」として、幼稚園児を導きました。
彼女が寝床で、フランスなどの先進的な幼児教育論を勉強している姿はよく憶えています。
さて、もともと九州に来た小早川の一族は現在の広島や岡山を支配していた武家ですから、祖母のヨツさんが、わざわざ広島にまで赴いたのには、何かしら繋がりがあったのではないかと推測しています。
私の次男坊が、現在広島で仕事をしていますが、何かしら縁を感じますね。
このお二人の写真を見て、祖父の年齢は65才とありますが、現代の65才よりはよほど老けて見えます。
父親があろうことかキリスト教に改宗してしまい。祖父としては残念極まりないことだったに違いありません。父を勘当してしまいました。
この翌年に亡くなってしまうのですが、むべなるかな、ですね。
亡くなったときに、父がポツリと肩を落として、「今から通夜に行ってくるから。」と戸畑駅から夜行列車で、宮崎に向かった姿を憶えています。
それから、私の父親の上に三姉妹がいたのですが、それぞれに気位がもの凄く高い伯母様方でした。芸術家たちでした。
そのお話はまた今度ということにします。
ここまでお付き合い下さって、ありがとうございました。