福岡県立修猷館高等学校 教職員研修会 講演シナリオ
日時 平成12年(西暦2000年)10月16日(月曜日)
14時〜15時30分
場所 福岡県立修猷館高等学校 視聴覚教室
演題 「命の尊さ」
講演要旨
0.開会の言葉、館長挨拶 3分
1.自己紹介 2分
木村外科病院のホスピスに勤務しています。子どもは3人。長男が2年前に修猷館を卒業しました。在学中は大変お世話になりました。また現在週末に臨時の事務の仕事をさせていただいておりますが、ご迷惑をかけているのではないかと思います。私は、九大を出まして、最初は小児科にその後佐賀医科大学の麻酔・蘇生科に入りなおしました。一般の医師から、救急救命と痛みの専門医になり、約10年前に思うところがありまして、ホスピス医を志向しました。その当時書き記しました文章を読み返しまして、時々は初診に帰っています。病院での非人間的な死ではなく、死に逝く人に人格を持った一人の人として接し、安らかな道のりを歩んでいけるようにサポートしてゆくことが医師として、また人間として大事なのではないかとそう考えるわけです。
そのためには、現在の最先端の医療、しかし非人間的なシステムではない何か別のものがあるはずです。その答えが大阪の淀川キリスト教病院で出会ったホスピスでした。
2.ホスピスの概念の紹介 10分
誰にでも訪れる「死ぬということ」
他の誰でもない自分の「死」
特にがんにかかり傷つき、社会、家庭での拠り所を失い、痛みに耐えている、その過程を支えてゆく・・・それがホスピス
ついえようとしている儚い命の終わりを支えるという仕事、それがホスピスです。
現代医療では治し得ない末期のがんの患者さんとご家族・友人が来られます。私たちはチームを組んで様々なケアを提供しています。
ホスピスの中心をなすのはミーティングで、コミュニケーションが一番大事です。スタッフ間のコミュニケーション、患者さん・ご家族・スタッフの間のコミュニケーション。
人は誰でも他の人に認めて貰いたいものです。
子どもは親に、親は子どもに、夫は妻に、妻は夫に見てもらいたい、認めてもらいたいのです。
病に倒れたとき、周りの人に優しく接して貰いたい。認めて貰いたい。
どれもまだ価値あるものとして認めてほしい。死に逝くとき、誰かに傍にいてもらいたい。
誰かを支えると言うことは、それは見て、触れて、聴くということです。
誰かに見てもらえて、聴いてもらえて、触れられるとき、人は支えられていると感じます。
3.ホスピスでの事例
①
②
③
④
⑤
⑥
4.教育との関連性 15分
教育の現場において「命の大切さ」を教えることは大事です。
高校は、若い人に「今からの人生を生き抜く知恵を授ける場」です。
いわば命のはじめを教えることは大事であり、素晴らしい仕事です。
命を与えられ、それを育み、大切にして自分の一生を形成してゆくこと。
いかに生きるか、大事なのは若いときからの哲学。
他の人ではない自分自身の人生を生き抜くこと。
自分らしくあるためにはどうしたら良いのでしょうか。
そのために、知識ではなく知恵を授けるように教育していく。
親の生き方が大事。結局親の背中を見て子どもは育つ。逆に言えば、子どもは親の鏡とも言えます。
親でなくても自分が尊敬し頼れる存在があることは素晴らしいこと。
よく死ぬためにはよく生きることが必要。生きるとはどういうことか。
人は一人では生きてゆかれません。家族や仲間や友人の中で生きていることを自覚してほしい。
精一杯生きて、やがては死んでいくのですが、自らの命を見守る人がいる、あるいは自分を超える絶対的な方がおられて、その方が私を見守ってくださる。それはある人にとっては神様です。信じ、祈るとき、そこには平安が生まれ、感謝の気持ちが生まれてきます。
穏やかな気持ちで一生を終えることができるのはなんと素晴らしいことでしょうか。
生まれたものは必ず死んでいきます。
ホスピスではお父さん、お母さんが亡くなるとき、子どもたちを呼び、死んでゆくことを説明しています。小学校の高学年になれば理解できます。お互いにお別れが言えることは素晴らしいことです。
私が今思うのは、小学校からの死への準備教育です。人は生まれてきたら必ず死ぬもので、それは自然なことだということを教えていく。
だからこそ生きている間が大事であり、日々新しいことなのです。
一日一日を大事にしてほしいと思います。毎日がチャレンジなのです。
ホスピスに入り、自分の命の限界を悟るとき、人はもう少し命がほしい、あれをするまでは、子どもがおおきくなるまではと、いわば神様と取引をします。しかし、人間である私たちにはどうすることもできません。
聖書ではどう言っているかというと、「汝の命、今宵取らるべし。」と言っているのです。
これは、ラテン語のメメント・モリ(汝の死を思え)からきていて、現代でもカトリックでは毎日の挨拶になっているようです。
母なる胎から裸で出てきたのだから、死ぬときおもまた裸で大地に帰る。
そこには、男女の差も、年齢の差も、学歴の差も、貧富の差もありません。
本当に裸で焼かれ、煙になり、土に帰ります。
与えられた人生を充実して生きてゆく時に鍵になるもの、それは自分で変えられるものにはチャレンジしてゆき変えられるのだという勇気・希望と、自分の力では変えられないことがあるという諦念の二つです。それを見極める知恵を授けるのが教育ではないでしょうか。
自分で努力しても変えられないことを従容として受け入れる知恵。
自分の死を受け入れる力を本来人は持っています。ホスピスで亡くなる方を拝見しているとそう思います。
物事を見極める力。
これは教育、ことに家庭教育と学校教育の二つで最初の芽をまかないといけません。
少なくとも私たち大人が芽を摘んではいけないと思います。芽を蒔いたら、その後もすくすく育つように栄養分を補充していくこと。
家庭や学校において十分にコミュニケーションしていくとそれはできます。そうすると鶏の巣立ちのように、あとは自分の足でしっかりと立てる人間になるでしょう。
私自身、中学校と高等学校で尊敬していた先生がおられます。その後大学生、社会人になってからはそんな人には出会えませんでした。
昨年、難治性の痛み研究会が東京でありまして、そのときに東北大学の名誉教授の言われた言葉が心に残りました。慢性の痛みを持つ患者さんが外来に来たときに、「ああこれは嫌だな、やっかいだな。」と思わずに、「こんな私を頼りにしてくれている。この人には私しかいないのだ。何とか応えよう。」とそう思うようにしていると言われたのです。枝葉末節の空論が続いていた会場は一瞬水を打ったように静かになりました。その後私はその先生に手紙を出しまして、爾来ときどき教えを請うています。
いわば、私の遠く離れた心の師匠です。
なぜこんなことをしているのでしょうか。それは医師としての仕事を、自分の人生の質を上げたいと願うからです。自分の人生の質をより高いところに引き上げたい。
生きてゆくことは、他の誰でもない自分自身でしてゆかなくてはいけない、生涯をかけた作業です。
目の前のやるべき仕事と、生涯の目標の二つ、手を抜かずにやり遂げる知恵を育むことは、教育の大事な使命だと思います。
ホスピスではそれまでの人生の総決算が心ゆくまでできるようにサポートしたいですし、またはそのことは、ホスピスで働く私にとっても大きなチャレンジです。
5. 質疑応答 15分
総論的なこと、具体的なことへの質問に答える。
話が方向性をもって発展していくように。
6. 館長謝辞、閉会の言葉 5分