西南学院教会日曜日礼拝メッセージ 2012年9月23日 小早川晶
主題 「いのちについて」〜人生をどのように生きるか〜
聖書引用箇所
コヘレトの言葉第3章10節〜14節
皆さん、おはようございます。小早川です。
ここでお話しますのは、2年ぶりではないかと思います。
私のことを知っておられる方もおられますが、そうではない方もおられますので簡単に自己紹介します。熊本市で生まれまして、福岡市や宮崎市、日南市などで育ち、北九州の戸畑で高校を終え、その後福岡市の九州大学を卒業しまして医師となりました。
小児科医を振り出しに、麻酔科医師、救急部医師、集中治療室医師などを経まして、最終的には緩和ケアの医師になりました。現在は北九州市立医療センターで緩和ケア内科の医師として働いています。
20才で信仰告白をいたしました。その後は、教会から若干離れていましたが、三男がここの幼稚園に入園しまして、その後私もこの教会に来るようになりました。今では、西南学院大学社会福祉学科で「老年学」の講座を受け持ち、また西南学院の評議員として、この西南の発展もサポートしているつもりです。
さて、今日の私のメッセージですが、まずは今週の週報の「巻頭言」を見てください。
『2007年9月18日ペンシルベニア州ピッツバーグで、46才のランディ・パウシュ教授が「最後の講義」をしまし。1年前に、「膵臓がん」の手術を受け、化学療法や放射線療法を受けたのですが、肺や肝臓に転移し、「余命6ヶ月以内」と知らされました。彼とその妻ジェイには、5才と2才、1才の幼い子供3人がいました。これから先も続くと考えていた自分の人生の「終わりの時」が近いと知った時に、「最終講義」を依頼されました。
彼は自分の大切な人や子供たちに伝えたい「大切なメッセージ」を考えました。その過程で、家族や友人、医師、牧師やカウンセラーから助けられました。
「最終講義」で、彼は自分の「いのち」を紡いできた8才の頃からの自分の「夢」について語り、子供たちに教えていくはずだった「生きること」について400人の学生に語りました。「最終講義」は全米に中継され、2500万人以上の人たちが観て感動しました。インターネットにも動画配信されました。
彼は「夢をどのように実現させるかでは無く、人生をどのように生きるかという」話をしました。わたしも今日、「夢を実現させる人生」についてお話しします。』
今日は、通常の礼拝の中でのメッセージであり、時間が限られていますので、3つか4つくらいのポイントに絞ってお話ししようと思います。
- 「いのち」について
最初に、「いのち」について、考えてみたいと思います。
「いのち」、これは不思議な語感を持つ言葉です。
「いのち」について語った本はたくさんあります。また映画や音楽や絵画など、人間の芸術的な活動には、どこかに「いのち」の問題が含まれています。
最近呼んだ本に、『最後の授業〜ぼくの命があるうちに』という素晴らしい本があります。今日はこうして持参してきました。北九州市立図書館で見つけ、あまりの面白さに、自分でも購入しました。そして、もう一度最初から最後まで通読し、感動した箇所、大事だと思った箇所をノートに抜き書きしてみました。わたしは、何かを集中的に勉強するときには、このようなノートを作ってきました。
2007年9月18日 アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギーメロン大学で、バーチャルリアリティの権威として知られるランディ・パウシュ教授が「最後の講義」を行いました。教授を退職する際には、「最後の講義」をすることが通常行われていますが、彼の場合はちょっと違う状況でした。
2006年9月に、彼は膵臓がんを告知され、余命半年足らずと宣告されていました。46歳の彼は、当時、最愛の奥さんと3人の小さなお子さんに恵まれ、仕事も順調でした。そこに降ってわいたように「末期癌」の宣告を受けたのです。
彼はあることを手がけると、そのことに没頭してしまう人でした。奥さんは彼の余命が短いことを知っていましたから、奥さんや3人の子供さんと過ごす時間を大事にしてほしいと思いました。そこで、彼に「最終講義」を引き受けないように何度も頼みました。彼は講義を止めようかと悩みましたが、彼が生きてきた証をすること、そして将来彼の人生を子供たちが理解できる年齢に達したときに、あなたたちのパパはこんな人だったのだよということを残せる良い機会だと思い、最終的に「最終講義」を受けることにしたのです。
彼が選んだ最終講義のテーマは「夢を実現すること。」でした。
夢を実現させようとすれば、壁に阻まれることがあります。でもその壁は、自分の行く手を遮るためにそこにあるのではない、その壁の向こうにある「何か」を自分がどれほど真剣に望んでいるかを証明するチャンスを与えてくれているのだと、彼はあくまでも前向きです。
そしてパウシュは繰り返します。夢をみること、そしてその夢をかなえようと努力することが、自分の人生そのものだったことを。
最後の講義で彼は、夢を実現させること、人生を楽しむこと、家族や大切な人たちを愛して愛されることを繰り返し強調しました。その講義は人生をいかに「生きるか」という力強いメッセージに溢れていました。
そのメッセージに、講堂を埋め尽くした400人以上の聴衆だけではなく、テレビや新聞で報道され、やがて講義の映像がYouTubeなどのネットワークで流されて、全世界の人々に感動を与えました。世界中で数百万人以上の人々がその映像を観たようです。私も観ましたが、癌の悪液質という状態で、痩せこけていたのですが、その授業での彼は、授業できる喜びを全身で表現し、奥さんも講堂にいて、夫が活き活きと講義しているのを観て、涙を流していました。
わたしもこうしてノートを作るくらい、彼の真実の言葉に感銘を受けました。
彼は消えていこうとしている自分のいのちに真剣に向き合い、前向きに生きることのすばらしさを教えてくれました。そして私たちにすがすがしい印象を与えてくれました。
わたしは、いのちの不思議さを思います。
彼のような優れた人物にも、そうでない人にも死は平等に訪れ、やがて、時空の中に消えていく儚さを思い、だからこそ1回きりの人生を精一杯生き抜くことの大切さを思います。
さて、いのちという言葉、日頃私たちはあまり気にとめず使っていますが、国語として使われる場合、正確にはどのような意味があるのでしょうか。
私が日頃使っている MacBook Proに、大辞泉という国語辞書のアプリが入っています。
これで調べてみますと、1から5までの意味が記されています。
1番目は、「生物が生きていくためのもとの力となるもの。生命。」とあります。凡例としては「〜にかかわる病気」「〜をとりとめる」「〜ある限り」とあります。2番目には、「生きている間。生涯。一生。」とあり、凡例として「短い〜を終える」とあります。3番目には「寿命。」とあり、凡例としては「短い〜を終える。」とあります。4番目には「最も大切なもの。唯一のよりどころ。そのものの真髄。」とあり、凡例として、「〜と頼む」「商売は信用が〜だ」とあります。5番目には「運命。天命。」とあり、凡例としては、「年ごとにあひ見ることは〜にて老いの数そふ秋の夜の月」(風雅・雑上)とあります。
この大字泉の「いのち」の項目の類語としては、生(せい・しょう)・生命・人命・一命・身命(しんめい)・露命・命脈・息の根・息の緒・玉の緒とあります。
すなわち、いのちとは、人が天から与えられたものであり、生きていくために必要なものであり、それはその人の一生であり、生きているあいだのことであり、やがて寿命がくれば、天命に従って、この世を去らなければならない、そのようなものだということです。
キリスト教の教えに従えば、この「天」というところを「神」と置き換えることになります。
② ここで語る私自身のことについて
さて、ここで少し、ここで皆様に語っているこのわたし自身のこと、わたしに影響を与えた両親や祖父母についてお話ししてみたいと思います。
わたしは、1953年の12月に、この世に生を受けました。
熊本市水前寺町が、出生地です。当時父は熊本大学薬学部の研究者、母は尚絅女学校の図書室勤務の司書でした。母方の祖父の家系は旧島原藩の御殿医の家系ですが生家は貧しく、近郷の方々の支えで熊本医学専門学校、今の熊本大学医学部を出て、外科医となりました。昭和の初めに政府からドイツ帝国に留学するように命じられたのですが、結核に罹患していたことが判り、結局留学はできませんでした。結核の療養を兼ねて天草に渡り、そこで外科医院を開業しました。祖母は旧長崎医学専門学校の付属看護学校、付属助産婦学校を出た、天草の造り酒屋の娘でしたが、元を正せばやはり島原藩の家老の家系だったそうです。父方の祖父は宮崎の旧橘藩の城代家老の家系で、広島高等師範出身で宮崎の旧制中学の校長であり、祖母は旧砂土原藩の文書方の家系で宮崎高等女学校を出た教師でした。その後祖父は熊本薬学専門学校、現在の熊本大学薬学部を出て、祖母の実家の薬局を継ぎました。
ですから、わたしの家系は、医師か薬剤師か教師かという、割と堅いイメージの公的な職業人が多かったということになります。
わたしの父は、志願して海軍に入り、特攻隊として戦死するはずが、乗るべき軍艦も飛行機も無くなってしまい、郷里の宮崎に戻ってきました。戦後入学した宮崎大学工学部は授業が面白くないとして辞めて、実家の薬局を継ぐべく、熊本大学薬学部を出て薬剤師になりましたが、やがてキリスト教に興味を抱き、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。
わたしが幼い時に、西南学院大学の神学部の学生となり、当時の西南学院教会の牧師をしておられた、木村先生にそしてその奥様にとてもお世話になったということをわたしは両親から聞かされて育ちました。父は西南学院中学、高校で数学、英語、物理などの非常勤講師もしていたとのことです。母は、父と結婚したあと、実家を出て苦労し、最終的には牧師の妻となり、戸畑のハレルヤ幼稚園の副園長として幼児教育に心血を注ぎました。
わたしが育った戸畑の牧師館は、ヴォーリズ建築事務所が設計したものでした。今でも思い出すのですが、近隣の普通の日本家屋とはかなり異なる建物でした。
わたしは、建築や造形、デッサンにとても興味があり、自分でも本や資料を集め、各地の建築物などを巡ることが大好きなのですが、ひょっとしたら、あの牧師館で小学、中学、高校生時代を過ごしたことと無縁ではないとそのように思っています。ヴォーリズの足跡を記した「ヴォーリズの西洋館」や彼の伝記、彼の教会建築の本や日本各地に残されている建築の写真集などを所有しています。
後年、わたしが聖路加国際病院とホスピス単科のピースハウス病院に就職するようにと、日野原重明先生に呼ばれて福岡から東京に行くわけですが、その面接の際に、先生は「小早川君、人間どこに住むか、どのような環境に身を置くのか、そしてどのような建物で生活するのかが、とても大事だよ。東京で何処に住むのかは本当に大事なことだからね、よく吟味しなさいよ。」と仰っていただいたあのお声を、昨日のことのように覚えています。
さて、その牧師館には、いろいろな方が訪ねてこられました。
教会の敷地からちょっと上がった牧師館には、西南学院の関係者としては、ギャロット先生などが来られていましたが、他にも多士済々といった感じで、京都や神戸から、哲学者や神学者などが訪ねてきていました。中でも松村克己先生は別格で、旧制第三高等学校、京都帝国大学哲学科の出身で、当時は関西学院大学の神学部教授でした。この先生と父は馬が合うというのでしょうか。
この先生が来られると、それこそ談論風発といった趣でした。私は中学生から高校生になっていましたが、それに触発されて、当時の戸畑高校の図書館にあった哲学書や哲学者の伝記などを片端から読み漁り、父の書棚の本を借りて読んでいました。和辻哲郎氏や波多野精一氏、新渡戸稲造氏、ルター、カルヴァン、ニーチェ、キルケゴール、ドストエフスキーなど難しいものもありましたが、プロテスタント、カソリックに関わらず、神学的なものや哲学的な書物を読むことが概ね好きでした。高校生時代は、いろいろな哲学書を判らないなりに読み解いていました。同時に数学が好きでした。何よりも一見解答がなさそうに見える、方程式を解くことが面白くてたまりませんでした。ですから将来は哲学者や数学者を夢見ていました。
そんなわけで、京都大学に対するあこがれがあり、大学受験も京都大学の数学や哲学にしたかったのですが、私の家の経済的な状況はとてもそんなことは許されませんでした。また私の高校の同級生、伊藤君が京都大学理学部物理学科に進学しましたが、彼は天才だと思いまして、彼のような俊才とはおそらく競争しても無駄であることが判ってしまいました。人生の若いときに、こういった分野での本当に世界的な研究者になることへのあきらめがついて良かったと、今ではそう思えます。私は、地道に努力することしかないと悟りました。
そんなわけで、やがて、進路を決める際には、祖父や叔父が携わってきた医師になるべく、医学部に、そして家から一番近い九州大学にとなりました。
九州大学の医学部と同時に自治医科大学にも合格しまして、将来はどこかの地方で働く自分を想像していました。学生時代は研究者としての仕事にあまり魅力を感じることができなかったのですが、大学を卒業して臨床医になると、医師としての仕事に目覚め、面白いと思いました。
その後は自分の医師としての職業をプロとして確立する日々が過ぎていきました。
最初は小児科医として新生児医療にも少し関わり、その後はあるきっかけで麻酔科医、慢性疼痛を診るペインクリニックの医師に、そして救急医として、集中治療医としても働きました。試行錯誤というと聞こえがいいのですが、その時々の大学の人事の都合や自分の興味の赴くところに従っての専門職選びが続きました。
そして、佐賀医科大学付属病院で、あるがんの子供さんの痛みを和らげる担当になったことで、ホスピス・緩和ケアへの道が開かれたのです。普通の医師ではなく、これまでとは全くベクトルの違う医師への道が開かれました。そしてすぐにこれこそわたしがしたかった仕事だ、とそう思いました。
そこからは緩和ケアの道をまっすぐと歩いてきています。
私は緩和ケアの論文を1995年に発表していますので、今年でもう17年目になります。以来、この分野での日本での先駆的な仕事ができてきたことを良かったと思います。自分なりの自己実現ができてきたからです。
私という人間が、せっかくのいのちを与えられたのですから、置かれている状況がどうであれ、必ず後悔しない生き方をしよう、自分の夢を実現させようと、中学生の頃からずっとそのように考えてきました。そのための努力はしてきていると自負しています。
聖書にも「門を叩け。そうすれば道が開かれるであろう。」との記述が出てきますが、なるほど後から考えると、そういうことだったのかもしれません。
私は、自分の進むべき道をずっと探してきたのでした。そして緩和ケアの門を叩いて、その門が開かれたのでした。
さて、今日は若い方々もおられるようですので、少し自分の若かったときの経験もお話ししたいと思います。
私が大学受験の浪人中に、旺文社がスポンサーをしている大学受験ラジオ講座がありました。昭和48年から49年にかけてのことです。テキストもあり、それこそ牧師館の2階の勉強部屋で毎晩その番組を熱心に聴いていました。
あるとき、物理学の最終講義がありました。講師は当時東京大学の地球物理学の教授だった、竹内均先生でした。先生のある言葉が耳に残っています。先生はこう言われたのでした。
「皆さん1年間よく頑張ってきましたね。皆さんには是非大学の門を突破していただきたいと思います。そうして、大学で勉強し、勉強したあとは社会に出て自立し、ご自身の社会での居場所、ポジションを確立し、そうして、本当に自分のやりたいことが実現できるように、一歩一歩着実に社会の中でのポジションを上げていってください。今の若い君たちには夢を持っていただきたいのです。そのための努力を惜しまずやれば、いつかはその夢が成就するときが来ます。必ず来ます。私もそのように来ますようにとお祈りします。この言葉を皆さんへのはなむけとして皆さんに送りたいと思います。では皆さんごきげんよう、さようなら。」と竹内均先生は語られ、そうして番組のエンディングの音楽が流れました。あれから早いもので38年が過ぎました。
今でもときどき、あのときに聴いた先生の肉声が頭の中に蘇ります。冒頭にご紹介したランディ・パウシュ教授と全く同じことを、洋の東西、生きておられた時代は違っても、同じことを言っておられたのです。
③ ホスピス・緩和ケアについて
自分は今でも果たして自分の夢を実現できているのだろうかと自分に問いかけています。
私は、なるほど、一般的な医師にはならなかったのかもしれません。毎日、ご自分のいのちが危機的な状況に置かれている方々のお世話をしています。
通常の医療や看護と違うのは、全人的ケアを取り入れたケアを行っていることです。これはシシリー・ソーンダースという女性が考え出した概念です。イギリスのオックスフォード大学で看護学を修め、看護師として働き、その後腰を痛めてソーシャルワーカーとなりました。そして、1950年にセント・ルカホームで夜間のボランティア婦長をしたときに、モルヒネが定期的に投与されて、がんの患者さんの痛みが消えていることに驚きました。その後上司の医師のアドバイスに従って、ロンドン大学の医学部に入り、そこで猛烈に勉強して医師になりました。1957年のことです。翌年、彼女はセント・ジョゼフホスピスに勤務し、セント・ルカホームでの経験を生かして、看護師にモルヒネなどの処方を任せました、その結果1000人以上のがん患者の痛みが良くなり、BBCで取り上げられ、大きな反響がありました、そして1967年に、彼女はロンドンに主に癌患者の症状マネジメントをする世界で初めての組織、「セント・クリストファー・ホスピス」を造りました。そして世界で初めて、「在宅ケア」を組織しました。今、世界中で、ホスピス・緩和ケアや在宅ケアが拡がっていますが、彼女が考え出し、組織したものが最初だったのです。
私も、ここに行きまして、緩和ケア病棟、在宅緩和ケア、緩和ケアデイサービス、緩和ケア教育センターなどを視察してきました。一般の市民、企業から毎年多額の献金、寄付金があり、その活動を支えています。英国の王室からも毎年寄付が寄せられています。
私は、大阪の淀川キリスト教病院の救急外来や、集中治療室で働いていて、そこで私の「緩和ケア」のキャリアーが始まったと思っています。
どういうことかと言いますと、私はその現場で「患者さんやご家族によく説明すること、話し合うこと」を目標に頑張っていたからです。
これは「ナラティブ・メディスン」といって、いわば「語りによる癒やし」です。
重傷を負ったり、心肺停止状態にあったりして、いのちが脅かされている患者さんのご家族に、最良の医療を提供しているが、危機的な状況であり、やがていのちが召されるかもしれない非常に切迫した状況であるとか、あるいは集中治療室で、「最良で、最適な医療を提供してきたが、多臓器不全が進行し、やがて死に至る状況であること。」をわかりやすく説明をしなければいけないのではないかと、大学の救急部に居た頃からそう思っていました。病院の医師は、今でも患者・家族に病状の説明をあまりしていません。これこそが問題だと考えています。患者を一人の人間として認めていないことこそが問題なのです。
ですから、私がホスピス・緩和ケア医になり、トータルペインという概念に接したときに、淀川キリスト教病院でいただいたマニュアルに掲げてあった、『淀川キリスト教病院の全人医療とは 「からだと、こころと、たましいが一体である人間(全人)に、キリストの愛をもって仕える医療です。」がすっと入ってきたのです。
私は緩和ケア医という名前の、医学の中でも一番新しく、また今最も必要とされている職業に就くことができました。その中で、自己実現ができていると思います。
これは、もちろん自分が選んできたことの積み重ねの結果そうなったのですが、節目節目で、不思議としかいいようのないことが持ち上がり、結果的にこうなってしまったのです。これは私の力、私の意思というよりは、むしろ天命、運命、言ってみれば、上におられる方のご意志と言えなくもありません。
緩和ケア医は、毎日緩和ケア病棟や緩和ケア外来で、いのちの問題に直面した患者さんと呼ばれる、大病を患っておられるご本人や、ご家族と接します。
最近思いますのは、人間にはそれぞれ定められた寿命というものがあり、同じような病気であっても、ひとりひとり全然ちがうものですよということです。このことが判っていない人が増えてきたなということを思います。
例えば、がんは誰かから伝染してくるものではありません。ご自分が持っている遺伝子やDNAの突然変異、長年の生活習慣、環境因子などから起こるもので、いわばご自身の身から出たものということも言えます。そのことを棚上げにして、手術して完全に治してください、抗がん剤で完全に治してくださいと言われ、再発するとまるで病院が悪いとでもいわんばかりの態度をとる人がいますが、間違っています。いくら事前に検査をしていても、病気をすべて予見できはしません。また医学は万能ではないのです。病気になって免疫療法や食餌療法をしてももはや無理なのです。
医師には判っているのです。たとえ手術ができて抗がん剤をしても治せないものは治せないし、余命は限られていることが。
これはある意味寿命であることが、医師には判っているのです。
私は、緩和ケア内科外来で、紹介してこられた患者さんやご家族に、画像や血液検査を含めた所見をおさらいしています。そうすると、病気がどこまで及んでいるのか正確には知っておられない方が実に多いのです。
もう消えようとしているご自分のいのちであることが判っていない。
そして、全く意味のない免疫治療などに百万円単位のお金をつぎ込んでいる人が増えてきました。中には数百万円もの大金をつぎこんでいます。
日本緩和医療学会では、免疫療法や民間療法がどれほど科学的な裏付けがあるものか、詳しく調べました。するとすべてに科学的な論文の裏付けが、全くないのです。そういった治療とは言えないような民間療法、免疫療法に藁をもすがる気持ちですがってしまうのです。何とか延命したいと。
でも行き過ぎると、深刻な問題を家族にもたらします。
私、あるとき、ある患者さんにこう言いました。「あなた、さっきからお聞きしていると、ご自分が生き延びることばかりに執着しておいでですが、しかしね、もうあなたのいのちはですね、風前の灯火であり、長女さんはもうお母さん、無駄であり無理な免疫治療は止めてください。横になって寝ることができないくらい呼吸が苦しいから、先生がいわれるようにモルヒネを使っていただいて、安らかに休めるようにしてもらいましょう、と言われていますがあなたの夫は現在の事態から目を背けて楽観的なことばかり言い、あなたの次女さんは、インターネットでろくでもない情報ばかり探してきて、無理であり無駄な延命治療にお金をつぎこんでいますね。いいですか、今日のこの胸部X線写真から、また今日のこの血液検査の結果から考えて、もうそんなことをしている段階ではないと思いますよ。あなたがこのまま逝ってしまわれたら、あとに残された家族が仲違いをして、バラバラになってしまいますよ、少しは自分のことだけではなく周りのご家族のことも考えなさい。」とそう諭したのです。
本当に最近の緩和ケア内科外来に紹介してこられる患者さんやご家族には、「人間にはそれぞれ備わった寿命がある。いのちは皆同じ長さではない。」という実に簡単なことを理解する知恵もない、そういう人が増えました。本当に呆れます。私たち緩和ケア病棟の医師や看護師は毎日深いため息をつくのです。
家族がご本人のいのちを何とかしようとしても、それは無理なことです。
一心同体という言葉がありますが、人は皆「異心別体」なのです。いのちも心も体もすべて一人一人違うのです。このことをないがしろにしていると、真実が見えてきません。本人のいのちはその本人独自のいのちであり、考え方も、体力も性質も嗜好も信条も信仰も一人一人皆違うのです。それは、他人がどうこうできることではありません。またそれぞれの人生はそれぞれの人生であり、誰も他人の人生を歩くことはできません。
私は現在58才で、やがて12月には59才となります。私も自分自身の人生を歩いています。医師になった頃から、漠然とですが、医師として元気に病院で働けるのは、たぶん60才くらいまでだろうなと考えていました。医学部の先輩諸氏を拝見しても、そういうことかなと考えています。若い頃からの私のビジョンの一つですが、「自分の事務所を持つ。」ことの実現に向けて動き出しています。
緩和ケアの働きは、医師や看護師だけがするものでもありません。そこには社会からのサポートが必ず必要です。イギリスやオーストラリア、ドイツなどの現状を見ても、そこには必ず市民の参加があります。
私の夢は、市民緩和ケア・ホスピスの創設です。ホスピスとは建物ではありません。ビジョンです。このビジョンの実現のために私が神様からいただいている才能、タラントを用いようと考えています。この秋には、東京での設立に向けて準備に入ります。
良いビジョンであれば、神様が必ず行くべき道をお示しになると、そう思います。
さて、次に今日のテーマに移ります。
④ 旧約聖書 コヘレトの言葉について
旧約聖書の中に、「コヘレトの言葉」という書名のものがあります。今日私が選んだ旧約聖書の箇所です。
1987年9月に、新共同訳実行委員会が刊行しましたが、日本のカトリックとプロテスタントが共同で訳した聖書です。
私たちも日常この聖書を使用しているわけですが、その聖書ですと、1034ページから1048ページにかけて、全部で12章の短い記述です。
私はこのコヘレトのシニカルな言葉が好きで、よく読んでいます。
有名な言葉としては、3章の1節、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれるとき、死ぬとき 植えるとき、植えたものを抜く時、殺す時、癒やす時、破壊する時、建てる時、・・」と続くわけです。
コヘレトは言います。2章の24節、25節で、「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ」と。
3章の18節にこうあります。
「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に望むことは動物にも望み、これも死に、あれも死ぬ。すべては塵から成った。すべては塵に返る。」
5章にはこうもあります。
1節に「焦って口を開き、心せいて 神の前に言葉を出そうとするな。 神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」と
私は、言葉数が多く、焦って口に出そうとしますから、この言葉に出会ったときは衝撃でした。しかし、いまだに言葉数が多いのです。反省しますね。
7章の15節にはこうあります。
「この空しい人生の日々に わたしはすべてを見極めた。 善人がその善ゆえに滅びることもあり 悪人がその悪のゆえに長らえることもある。善人すぎるな、賢すぎるな どうして時も来ないのに死んでよかろう。」と。
29節には「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」と。
コヘレトはいろいろ記述していますが、最後の12章にこう記します。
「わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は善をも悪をも 一切の業を、隠れたこともすべて 裁きの座に引き出されるであろう。」と。
コヘレトは希代の哲学者だと思います。それも神の知恵を私たちに教えてくれる哲学者であり、神学者です。
私は思います。
どのような知恵も哲学も、科学も文学も、すべて人間の複雑な知恵は、神の前には空しいと。
人の一生は、自分の欲するところに従って、社会の中で自己実現とのためにあくせくし、そうしてやがては衰え、この世からあの世へ移されるのです。
まだ死後の世界がどのようであるか、テレビで実況したものはいません。ハイビジョンテレビもまだあの世には行ったことがなく、ましてあの世から返ってきた人間はいません。人間があの世について語ることは、ですからできないのです。もちろん臨死体験をした人は大勢いますが、それは死に望んだというだけで、実際に死んでしまい、肉体が滅んだあとに復活を遂げた人はいません。ただ一人キリストイエスを除いては。
人間はとても脆いものです。神によってそのように造られています。
私たちができることは、神から与えられたこのいのちを感謝して、無駄にしないように、精一杯自分らしく生き抜くことだけです。
私は、嵐のような牧師館で、小学、中学、高校と過ごすうちに、自然とそのような考えになりました。
すべては空しいとコヘレトはいいます。そして、「正しいことだけをしてきた善人は一人もいない。」と言い切っています。私もこのコヘレトの言葉に共感します。私たちは日々間違いを犯すものです。それでも、前に向かって進んでいかなくてはなりません。
私は一種開き直っていますね。どっちみち、神様が私たち人間をこのようにお造りになってしまったのだから、これは私たちにはどうすることもできない、神様責任とってくださいと。
まああとで、神様によくやったね、君の人生を君は一生懸命駆け抜けたね、と認めていただけるようにと願っていますが・・。
いのちの不思議さはいくら私たち人間が知恵を絞ってもとうてい判らないことばかりです。しかし、神様はそのような私たちを憐れみ、救いの手を差し伸べておられます。あとは私たちがその呼びかけに答えていくことだと思います。
コヘレトは言いました、
「何によらず手をつけたことは熱心にするがいい。いつかは行かなければならないあの陰府には 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。」と。
また、「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来たときの姿で、行くのだ。労苦の結果を何一つ持って行くわけではない。」とも言っています。
そうであれば、生きている間、時間が自分で自由に使える間に、本当に自分がしたいことをできれば幸いです。
また人はそのように生きるように本来はプログラミングされているはずです。
これは神の御心にかなう生き方ではないでしょうか。そして一人一人が自己実現できてこそ、この社会は活力ある、調和の取れた社会になるのではないかとも思いますが、究極は一人一人が自分の心の声に従うこと。
そしてその根本に神様がおられれば望ましいのではないかと思います。
⑤ 今日のメッセージの要約、そして祈り
コヘレトは旧約聖書の中に「コヘレトの言葉」という巻物を後生の私たちに残しました。ランディ・パウシュは「最後の講義」という素晴らしい本を家族のために、同僚や友人のために残しました。また私の父は「講壇」という説教集を残し、現在は福岡市図書館に寄贈されていて、まだあれば読むことができます。私は、おびただしい本、書籍の中で育ちましたから、できれば自分の本を出版したいと願いました。そして緩和ケアの本を現在までに6冊出版できました。来年も2冊予定されています。これは私の死後も残ります。私という人間が何を考えてきたかを後生に残せます。しかし、生きた証は、何も本を残すことだけではありません。皆、この地球という惑星に生きた何らかの証を、自分という人間の記憶を友人や家族に、そして何よりも神様の前に残せれば素晴らしいことだと思います。
神様からいただいたタラント、才能、能力を使い、自分のためだけではなく、ほかの人のために用いること、それが本当の仕事と思います。
そして、その根本に神様の知恵があれば、その仕事は祝されたものとなるでしょう。
「神様を知ることが、私たちの知識、知恵の始まりです。」と聖書にあります。
私たちの心を健やかにし、魂を養ってくださるのは、神の言葉です。
日々の生活の中で、私たちは心も肉体も魂も疲れています。
詩編の55編、23節にあるように、「わたしたちの重荷」を主にゆだね、主に従うことが大切であり、そうすれば「主がわたしたちを支えてくださる」と信じます。
「わたしたちの魂」を動揺しないように取り計らってくださいます。
複雑で、解決のつかない考え、重荷を降ろし、幼子のように主にしたがうことこそ、永遠の命に連なる方程式の解だと思います。
祈ります。
今日はいのちというものは神様から与えられたものであることが示されました。一生とは、人生とは、自分が使える時間のことであるとのこと。そして案外その時間は振り返ってみると短いのかもしれません。どうか自分の人生や命のみではなく、まわりの方々の人生や命も考える心の余裕を、本当の知恵を私たちにお与えください。
そして何より、自分のこのいのち、いつかは天におられる神様にお返しするときが必ずくるという知恵を与えてください。その上で、私たち一人一人がそれぞれの人生を豊かなものにできるように、またこの世であなたから与えられた1タラントを2タラントにも5タラントにも増やせるように、あなたのお力をお与えください。
そして、日々あなたの御手に私を委ねますという信仰があたえられますように。
この祈りを、尊き主、イエスキリストの御名を通してあなたにおささげいたします。
アーメン。
2012年9月17日 日本の祝日『敬老の日』に、福岡市の自宅にて上梓 小早川 晶