aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

3つのポリシー(大事にしていること)、3つのミッション(使命)

私のFacebookの自己紹介、最近はこんな文言にしています。

【昭和20年代の終わり頃、県立宮崎病院の楠の木で遊び、若戸大橋の開通時に戸畑市に。20才で福岡市に遊学し、医師🧑‍⚕️を続けています。小さいときから、何事も自分の頭で考えること、をモットーにしています。】

私は、高校を卒業してから、さて、どんな職業に就こうかなと考えていたほど、ぼんやりとしていました。そして出した結論は、「祖父や叔父のように、医師になって、田舎で心豊かに暮らそう。」でした。

そして、「医学教育として、斬新な、そしてグローバルな基準で、私の知識欲、向上心を満たしてくれる、そんな医学部に行きたい。」と考えるようになりました。

すると、例えば、昭和48年当時ですが、候補に挙がったのは、岡山大学自治医科大学でした。中でも自治医科大学は、東京大学医学部血液内科の泰斗、中尾喜久先生は初代の学長を務められましたが、その教育方針が受験生へ配布されました。そこには、「これまでにない、先進的で、臨床に即した医学教育を目ざしていること、特に北米のUSAやカナダの進んだ医師養成プログラムに範をとり、優れた医師を育てること」が謳われていました。

 そして、6年間で2,200万円必要な学費が、卒業後9年間、福岡県の管轄する病院で勤務すれば返還義務が無くなるということも魅力でした。

我が家は貧しく、持ち家も無い、そのような境遇でしたから、私にとっては理想でした。

昭和49年、自治医科大学に目出度く合格しました。自治医科大学は、各都道府県単位で2名から3名の合格者を出しますので、県ごとに難易度が違ってきます。私のときは1次試験で17倍の競争率でした。栃木県の大学本部で受けた2次試験を経て合格しましたが、最終的には百数十名の受験者の中から私を含めて2名でした。九州大学医学部も受験していたのですが、合格発表は昭和49年3月15日でした。九州大学箱崎キャンパス、工学部で行われた合格発表で、私の名前を確認し、そして戸畑の牧師館の玄関を開けた瞬間、テレビから私の名前が読み上げられているのを見ました。そして、その後すぐに福岡県からも自治医科大学に合格したことを知らせる電話がありました。

 結果的には九州大学に入学することになったのでしたが、やはり、その医学教育にはおおいに失望しました。

 卒業時、将来の夢を綴る文集に、多くの学友たちは、「教授を目ざす」など、出世することや、「がんを研究して博士号を取る」ことをプライオリティ(第一に考えること)と掲げていましたが、私は「自分の頭で考えることを止めないこと。」と書きました。級友たちからは「おまえ、変わっとるな〜」と言われ、相手にされませんでした。

 あのとき、自治医科大学に入学していたら、と思わないことはありません。

 現在、筑豊の地にあって、念願だった地域医療に邁進できていると感じていますが、20歳のときに考えていた理想に、近づけている、そんな気がしています。

 自分の頭で考えること、自らの意志を曲げないこと、恵まれない地域、高齢化の進む地域で医師を続けること、これが私のミッションであり、3つのポリシーです。

 

現在の自治医科大学の教育方針です。