aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

春はあけぼの

田川から、おはようございま〜す。
古の歌人清少納言の大ベストセラー「枕草子」のはじまり、「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」を想起させます。また万葉集の中に、たくさん、山際に纏わる和歌がありますよね。
 それで思い出したのですが、私が小学3年生の時に、日本バプテスト戸畑基督教会の牧師館に引っ越してきました。
 かの有名なヴォーリス設計事務所が設計した、まさに「アメリカ合衆国」そのものの洋館でした。
 まあ、アメリカ合衆国には足を踏み入れたことはありませんが、若くして「アメリカ」のスピリットにドップリと浸かっていたと言っても過言ではありますまい、ね。
  2階立ての洋館を出て、これまたアメリカを思い起こさせます教会堂の脇の細い道を50メートルも歩きますと、教会堂の前庭に出ます。
 それを左に折れて30メートルも行きますと教会付属の「ハレルヤ幼稚園」のこれまた、お洒落なアーチ形の門があります。
 その閂を開けまして、5,6段のコンクリートの階段を降りて、市道の歩行者専用の道を、そうですね、40メートル歩きますと、交差点があります。
 それを左側に渡りますと、目の前に「井上商店」があったのですね。その店先にはいつも「井上のお爺さん」が座っていて、「万葉集」や「古今和歌集」、「源氏物語」などの古典を、それはそれは嬉嬉として読んでいました。
 今、そういった情景がまざまざと蘇ってきました。今朝の田川の朝、山際の美しさ、幽玄を思わせる、まさに万葉の詩人たちが流離っていたような光景に出会えましたことを感謝します。
私の父方の実家は、もともと島津の出城だった「佐土原城」のお殿様に仕える中級の武士で、代々流鏑馬や立ち泳ぎ、柔術の錬士でありました。また今で言うところの「医師」、昔は薬師(くすし)の家柄でもありました。父の実家には、日本刀が飾られ、薙刀なぎなた)が欄干に(らんかん)に仕舞われている、その一方、薬屋として生計を立てていましたから、すりこぎなどが所狭しと整理されてありました。
 その上に、お殿様直属の神社、これは私が1か月だけ通いました「佐土原小学校の裏手の小山にあったと記憶していますが、そこの神官を代々務めていました。そして、そこに養子に来た私のお爺ちゃんは、祖母と結婚する前は旧制中学校の校長先生でした。祖母と恋に陥り、薬剤師になるために熊本薬学専門学校(現在の熊本大学薬学部)におそらくは40台で入学したと聞いています。入学時はドベ(最下位)で入りましたが、元来勉強熱心でしたから、卒業時には2番だったそうです。そのお爺ちゃん、合気道柔術の達人でもあり、小早川三省さんが、宮崎の目抜きを歩くと、地回りのヤクザさんたちが、ササッと道を空けていたという逸話が残っています。また「喧嘩の仲裁役」だったとも。旧制中学の教え子たちが、太平洋戦争で、「特攻隊」になってしまい、その大切な教え子たちが、佐土原の祖父に、翼をヒラヒラと振りながら川の上を飛び、軍服を着て、サーベルを高く掲げるお爺ちゃんに敬礼して・・何人も何人もそうして死んでいったのでした。
 戦後、腑抜けのようになり、その教え子たちが、死出の旅路をなぞって飛行した、故郷の佐土原の海岸に注ぐ川に、これまた海軍の特攻魚雷が尽きて九死に一生を得た復員軍人として、郷里に戻った我が父を伴い、「魚釣り」と称して出向き、その教え子たちの御霊にずっと手を合わせ、いつまでもいつまでも頭を垂れていた、そんな情景がまざまざと想起されます。
 戦争は、どんな理由があっても、絶対に、絶対にさせてはなりません。戦争で真っ先に死ぬのは、殺されるのは、前途ある青年たちです、その次に、守ろうとしてた家族です。
 ここまで書いてきて、私の涙腺は崩壊してしまいました、恥ずかしながら号泣です・・。(・_・、)
 田川の、この雄大な情景が、そして古来から日本人が宿してきた大和魂が、私に、お爺ちゃんを想起させ、お爺ちゃんの霊が乗り移り、お爺ちゃんのその時の目が、魂が宿りました。ありがとう、お爺ちゃん。そしてありがとう田川の山々。
 私には田川がとことん、合っているのでしょうね。合掌。

田川の山際、美しい朝