aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

西南学院大学西新キャンパス、地行浜、百道浜、愛宕浜の想い出と福岡市総合図書館フリーク

福岡市総合図書館、3Fからの眺望です。大分県済生会日田病院に勤務していた折、長男が「お父さん、僕は福岡市の福岡教育大学付属中学校に行きたいんだ。だから、福岡市に住もうよ。それと、過去問を買いたいから、百道浜と言うところに連れていってね。」と言い出した時、一家4人で、出かけました。このあたりに。そして、当時百道浜にあった割と大きめの書店で、その過去問題集を買いました。そして、このあたりのマンションを外から眺め、実際に不動産屋さんで、モデルルームを見たりもしました。うん、ここにしようかなと思いましたら、長男が、「お父さん、ここは周りがウルサくて、勉強に適した環境ではないから止めようよ、それよりも川向こうも見てみたい。」ということで、マリナタウンも見に行きました。戸建ては、勤務医の給料ではちょいと無理筋・・、でも建設省が建築しているこの高層マンション、あ、6階立てのマンションもあるのか、抽選もあるし、ダメもとでいいや、と、抽選が当たってしまいましたのでした。それでそのマンションに20年近く住みました。そこから3人の子たちは、それぞれ高校に進学していきました。長男は修猷館高等学校でラグビー部→バドミントン部へ、インフルエンザに罹患した現役の受験では涙を飲みましたが、翌年九州大学医学部に合格しました。私の後輩になりますね。臨床面では脊椎整形外科を、研究面では私の大学院時代の研究とも少し被るのですが、脊椎損傷の基礎的な研究をしていて、少し前にLANCETやNATUREに論文が掲載されたりしています。九州大学からUCLAに研究者として留学もさせていただいています。次男は姪浜中学では卓球で、県大会に出るまでになり、城南高等学校で野球部でレギュラーになり、現役で山口大学社会工学部に進みました。技術士という超難関の国家資格に史上最年少で合格し、トンネルの設計者として西日本の高速道路建設に従事し、そして今は再生エネルギー、中でも風力発電に取り組んでいます。三男は小学生の時、絵画で福岡県代表に選出され、福岡大学付属大濠高校特進科に進み、クラシックギターを習い、芸術畑に秀でていました。東京の国士舘大学に進み、NTTに就職しましたが、最近起業し、何だかよくわからないのですが、アプリを作ったりしています。このマンションは私たち一家にとりその役目を十分に果たしてくれました。今はもう手放していまして、現在は病院の官舎の戸建て住宅に住んでいます。

私は、福岡市総合図書館が大好きです。現在は福岡市内に居住はしていないのですが、幸いにも西南学院大学に勤務していますので、「福岡市内に通勤している」という条件に当てはまるおかげで、今も貸出券を所有できています。将来的にも、ここの貸出券は大切に維持したいな、そう思います。今のところ、70才定年という枠がある「非常勤講師」ですが、私が医学一般Ⅱを教えている所に、最近判ったことですが、医学一般Ⅰを教えている某君が、私が佐賀医科大学医学部麻酔科に勤務していたとき、福岡大学医学部外科から派遣されてきていて、私が佐賀医大付属病院で手術室のチーフレジデントをしていたとき、医員として麻酔を研修していた元部下でした。そして偶々ですが、彼が選んでいたテキストは私が選んでいるテキストを同じなのでした。それで、彼から提案があったのですが、今年度以降、彼が大学の1年生に教え、同じテキストを用いて、私が2年、3年、4年生を教えることになりました。と言うわけで、当分の間、西南学院大学の非常勤講師は継続できるのではないのか、そう思います。

 これから先、本業の現病院での仕事を終えたとしても、何らかの医師としての仕事は福岡市やその周辺で継続していくつもりにしています。

 私のメンターである、九州大学医学部の昭和42年卒業の新福先生は、現在田川市立病院緩和ケア内科に所属していただいています。先生は東京都のご出身で、九州大学を卒業されてから、初期研修を東京大学医学部でなさっています。その後、九州大学の精神科学教室に入局なさいまして、神戸大学国際人間科学部教授を長年されていました。並行してWHO東アジア地区のチェアマンとして、サーズなどの撲滅に尽力されました、他方、WHOがん性疼痛救済プログラムで、主に精神科的な薬剤をまとめ上げ、現在のがん性疼痛治療の一端を担われています。

神戸大学を定年退官されたあと、西南学院大学人間科学部教授に就任され、私の上司であった訳ですね。そういうご縁で、私が田川に来ていただくように懇願し、実現したと言うわけです。先生は長年百道浜の賃貸マンションにお住まいです。学者としての賢い生き方は、私の指針となっています。息子さんとはまだ面識がないのですが、東京で緩和ケア医として働いておられるとお聞きします。また先生のお父様は、九州大学医学部の昭和12年卒業の大先輩であり、元東京慈恵医科大学の精神科教授で、私が以前勤務していました、故日野原重明先生が理事長をなさっていたライフプランニングセンターでも勤めておられたようです。ここでも縁を感じます。

 地行浜には、今はマークイズ百道があり、映画を観たり、広島のお好み焼きを食べたり、金沢のまいもん寿司に行ったり、ネコパンを仕入れたり、ココファン薬局に行ったりしていて大好きな所です。何より、屋上の駐車場からは遮るものもなく、博多湾能古島糸島半島、背振の山々など一望でき、とても気持ちの良いところです。

 いまでも、百道浜愛宕浜地行浜、なんだかんだ言っても、私が良く訪れているところですね。長男が行きました福岡教育大学付属福岡中学校のあるあたりには、西公園があり、桜の季節、それはそれは美しいことになります。西公園から博多湾を眺めますと、嫌なことは全部忘れてますね。

 西南学院大学の西新キャンパスは、私が3,4才の頃から出入りしていました。父親が神学部に学士入学し、干隈の神学校寮に一家4人で住みながら、父親は西南学院中学・高校で、化学、物理、数学、英語などをパートタイムで受け持ち、アルバイトをしていました。何でも熊本大学薬学部を超優秀な成績で卒業した際に、昔はおおらかだったのでしょうね、「君はどの科目も優でした。学生実習もこなしていますしね、どうでしょうか、せっかくなので、教員免許も取得しておいたら。」と言われ、それでなんとなく中学と高校の教員免許を取った、とのことです。後年それがハレルヤ幼稚園の園長に就任する際に大いに役立ちました。

 それで、私は、父親に連れられて、あるいはあとでは1人で電車に乗って、干隈から西新駅までやってきて、そこから西南のキャンパスにはよく遊びに来ていました。

 昔の西新駅は重厚な印象の立派な建物でした。ついでに書いておきますが、現在の祇園町のあたりに博多駅がありました。ルネッサンス様式で、一部アールヌーヴォー様式だったようにも記憶しています。

 さてさて、今日も今日とて、行ってきま〜す。

福岡市総合図書館から。百道浜の高層ビル群が近代的です。