aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

ある日の訪問診療で考えたこと

今朝は、田川市のお隣の福智町の自宅と糸田町の自宅におられる患者さんのところに訪問診療に行きました。お二人とも、病院にいたときよりも生き生きとしていて幸せそうです。最初の写真は、高度の難聴がある患者さんへの質問票です。これは当院の訪問看護師スタッフが作成したものです。プラスティックの小さいボードに印字しています。私も今朝はこれで会話ができました。夫とは死別していて、妹さんが同じ団地に住んでいて、サポートしています。

 食事の世話は妹さんがしてくれています。お風呂はデイサービスで週に2回入れています。医療用麻薬などのくすりの管理もしてくれていて、訪問介護もほぼ毎日入っています。居住している部屋から、外を眺めることができて、今まさに近所の桜が満開になろうとしています。

2番目の写真は二人目の患者さんの自宅の庭に咲く「利休梅」です。患者さんの書斎兼ベッドルームから、この木や他にも植えられている木々を眺めることができます。裏山の竹林から、さーっと風が吹くたびに木々が擦れる音、葉っぱがそよぐ音が聞こえてきます。高齢の患者さんができるだけ自宅で過ごせるように、やはり高齢の奥さんがなんとか頑張っています。北九州に住む娘さんが週末にやってきて寝泊まりしてくれています。当院からは訪問診療が入り、他の訪問看護ステーションからも隔日での訪問看護が入っています。この訪問看護ステーションは当院の前の看護部長が立ち上げていて、私たちとの連携もスムーズです。ご本人は関東に住んでいましたが、定年で当地に帰りました。以来20年近く居住している我が家です。

 お二人とも住み慣れた自宅に戻ることができて幸せです。お二人に共通しているのは、独りではないことです。家族が一緒に、あるいはすぐ近くに居住していて、そして訪問看護や訪問介護で、介護や看護のプロの目が入っていてサポートしていることです。いくら兄弟姉妹や子どもや孫がたくさんいても、その方の居住環境から物理的に遠ければほとんど助けにはなりません。そういう意味ではこのお二人は恵まれています。

私が居住しているこの筑豊というところは、老人ホームがとても多く存在しています。家族の助けが十分には得られない高齢者が、何とか生活できるような高齢者施設が多いのです。また自宅や介護施設に訪問している訪問看護ステーションもとても多いです。統計では田川地区は福岡県でも群を抜いて多いのですね。

 数十年前炭鉱で栄え、全国から労働者がこの筑豊に移り住みました。炭鉱は閉山し、そこで働いていた人々はここに住み続けました。その結果皆高齢者となり、この地方の行政や福祉のお世話になっています。そういった高齢者をケアするための施設もまた多く存在しています。この先、5年、10年と経過すると、そういった高齢者が多数亡くなっていきます。そうしたときに、現在多く存在している施設や訪問看護ステーションが果たしてどれくらい存続できるのか判りません。

 日本の高齢者の分布は、世界の先進国とされている国々の中でも非常に多く、どの国も経験したことのない高齢化が急速に進行しています。その際に、ここ筑豊での事象は必ず参考になると考えられます。少子高齢化がどんどん進むと、遠からず今の日本の生活パターンはパンクするのではないでしょうか。

 また、昨今明らかになった、日本のエネルギー事情の脆弱性という問題があります。2026年2月28日にアメリカとイスラエルがイランを突然攻撃し、その結果ホルムズ海峡がイランによって事実上閉鎖されてしまいました。今後よほどのことがない限り、その閉鎖は長引きそうです。すると、日本はホルムズ海峡を経由する石油タンカーにほぼ100%依存しているわけですから、この先の石油資源が使えなくなるおそれが十分にあります。すると、ガソリンを燃料としている車が走れなくなり、軽油を燃料とするトラックが走れなくなり、物流がほぼ完全に止まります、そんな事態にならなければいいのですが。

もしそうなれば、日本の産業や日常生活はほぼ完全に止まります。私たちの生活はどうなるのでしょうね。まさか、また石炭をこれから掘るということにはならないのでしょう。

 今日の訪問診療中に、かつて石炭で栄えた地域を巡りながら、そんなことも自然と考えていました。

最後の写真は、診療を終えて病院に戻る途中、糸田町を流れる中元寺川という河川で信号待ちをしている時に撮影しました。河岸に果てしなく桜の木が植えられていて、丁度今満開に近い咲きっぷりです。この川と英彦山川が合流して、遠賀川になります。桜並木と清流を湛える川、どれも日本の美しい景色です。

 「国亡んで山河は残る」ということを詠んだ詩人がいますが、この美しい日本を守るためにも、日本は日本らしさを発揮して、世界平和に貢献すべきです。

他国を理不尽に攻撃する行為はどのように言い訳をしても無理がありますね。日本には「人を呪わば穴二つ」という言葉があります。日本が世界の平和に貢献できる道は、やはり不戦の誓いではないでしょうか。刃に頼る者は刃に滅ぼされると思います。

 これ以上世界が傷つかないように、大国には自制と自重を求めたいですね。そして、日本は大国に追従するのではなく、大義を説くべきではないでしょうか。そこはヨーロッパの賢人たちと歩調を合わせるのが良いと感じています。

 今日、美しい桜並木と清涼な中元寺川を見るにつけ、こんなことを考えていました。

 

全国の病院、ほとんどどこも赤字です。

今日は病院内の運営会議がありました。私も院長補佐としてこの会議に出席しました。病院経営は全国のどこでも厳しい状況が続いています。この病院は市立病院ですので、地域の市民の医療を遍く提供すべく、いわゆる不採算部門も、経営的に利益が出ないからといって止めることができません。ですから毎年赤字が続いています。その分は公的に市から補助金が出ています。それでもかなり厳しい現状です。そうした中でも医師、看護師、薬剤師、検査技師、栄養科スタッフ、看護助手、清掃などの環境維持のスタッフや営繕などのスタッフ、それに事務部門のスタッフなど、皆さん真面目に医療に仕事に取り組んでおられます。月に1回、主立ったスタッフが集まって、経営状況や各部門の状況などの情報を共有します。
 そして病院にはいろいろな委員会があるのですが、その委員会の報告をします。私も教育研修委員会の委員長として、また緩和ケア委員会の委員長として報告を行っています。約45分の会議でしたが、皆さん真剣に聴いておられました。
 病院経営も大事です。それと同じように、地域の市民の方々に良質な医療を提供していくことが大事でしょうね。私は、緩和ケアセンターの統括をしていますが、各地、各所で癌治療を受けて、最終的に地元に帰ってこられる方々にほっと安心していただけるように、日々努力を重ねていこうと思います。ただ、まだまだ緩和ケアが誤解されたり、紹介が遅すぎたりなど、いろいろと改善しなければならないことが多くあります。今年も緩和ケアチームで勉強会を開催しますが、そのテーマ、今年度は「田川にもっともっと緩和ケアを!」でした。4月からの新年度は、「緩和ケアのいろいろ」として、緩和ケアのことをもっとちゃんと知っていただけるような年にしようと思います。今日の運営会議に出席しながら、そんなことを考えていました。

田川市立病院の外観です。

福岡西方沖地震から22年経ちました。

2026年3月22日です。今日は西南学院バプテスト教会の日曜礼拝に出席できました。この教会堂が建てられる前は、旧い教会堂でした。今日から丁度21年前、2005年3月20日の日曜日午前10時53分に、福岡県北西沖の玄界灘で発生したマグニチュード7、最大震度6弱の地震がありました。当時、日曜日礼拝で賛美歌を歌っていた最中でした。私は教会堂の2階で、聖歌隊席で立って歌っていました。目の前の天井から吊り下げられた照明が右に左に大きく揺れる中、それでも歌っていました。教会堂全体が大きく揺れ、地面から何度も突き上げるような振動が伝わりました。悲鳴を上げている人もいましたが、それでも皆さん賛美歌を歌うことを止めませんでした。正直もうだめかもと思いました。賛美歌を歌っている最中に教会堂が崩れて、そのまま死んでしまえば、皆一緒に天国に行けるのかななどと思いながら歌っていました。それと今は非常事態なのだから、賛美歌を歌うことは止めて外に避難しなければならないのに・・などと思っていました。その後礼拝堂から外に出まして、隣接する西南学院大学の松の木に囲まれた庭で、礼拝が続けられました。あれから21年目です。
礼拝で賛美歌を力一杯歌うとお腹が空きます。お昼は室見駅近くのイタリアンレストランにしました。初めてのお店です。店内はこじんまりとしていますが、清潔で、居心地のよい空間でした。三々五々、近くの人たちが訪れていました。小学生くらいのお子さんを連れた家族が多く、活気があります。初めてと言うことで、お店の看板メニューのマルガリータのピッツアとズワイガニのパスタにしました。ドリンクメニューのコーヒーも含めて、なかなか美味しかったです。

西南学院バプテスト教会

室見駅近くのイタリアンレストラン、ITARO

2013年9月に教会堂は新しく建て替えられました。そして立派な教会堂に建て変わることができました。耐震設計だと思います。良かったです。

福岡北西沖の大地震から21年目になりました。今は福岡市外に居住していますが、こうしてこの教会に通うことができ、そして美味しく食事を頂けていますことを、神様に感謝します。

AIと未来の生活

この画像は一昨日、福岡市のソラリアプラザの地下のレストランで撮影した写真を、NANO BANANAというGoogleのAIで加工したものです。今日からAIのGeminiを使い始めました。その過程で画像ソフトの存在を知りました。元の写真をAIのNANO BANANAに取り込んで、「背景を図書館の中にして」とオーダーするとたちどころにこの画像を示してくれました。驚きですよね。わたしが図書館にいてそこで写真を撮ったことになっています。こうなるともう本物なのか合成なのかわかりませんよね。ちなみに次の写真が元々のものです。違いが少しだけあって、元々の画像ではわたしの右耳にAirPodsPro、イヤホンですが、それが写っていますが、生成された画像では、それが無くなっていますよね。それにしても凄いです。
今日がわたしのAI事始めとなりました。別のことをGeminiに相談しましたら、まったく見当違いの答えでしたのでそのことを指摘しましたが、すぐに誤りを認め、謝ってきました。その上で瞬時に正しい情報を探して来ました。人間の知能を超えているところがありそうです。現在勤務している病院でも、カルテ(プログレスノート)の記載の部分に、「生成AI」という項目が新たに加わりました。
例えば、他の病院からの診療情報提供書を取り込んで、それを生成AIに投げかけると、文面を取り込むだけではなく、「階層的に」整理して、たちどころに提示します。あとはその文章を取捨選択して文章として成立するようにするだけで、プログレスノートへの記載の時間が大幅に短縮できるようになります。これは医療現場でのパソコンに向かう時間を省力化し、もっと患者さんのベッドサイドに伺う時間を増やしたり、他の有意義なことに使える時間が増えてとてもいいと実感します。
 今後、AIが医療の現場や福祉の現場で使えるようになったり、研究会や学会発表におけるスライド作成の手間が省力化されたり、もっと判りやすいスライドを作成することができるようになるのではと期待しています。
 AIは仕事の場面だけではなく、私たちの生活全般にいろいろ関わってくると思われ、私たちも「食わず嫌い」ではいられなくなるでしょう。
 おそらく、今後は小学校や中学校などの教育現場でも生徒に先生たちが教えるようになっていくのでしょう。AIについての教科書も作成されるのでしょうね。
 私も、何とか現代でいきいきと生活していくために、遅ればせながら、AIに馴染んでいこうと思います。

あるレストランの中での写真をAIで生成した写真です。

元の写真です。

祖父母の形見の古時計

今から80年前に、日本は太平洋戦争で負けました。天皇陛下の詔があって、やっと戦争は終わったのでした。今日、机の周りを掃除していて、久しぶりにこの時計に遭遇しました。これはわたしの母方の祖父、中村一男さんが、1936年に長崎市の稲田時計店で購入したスイスのWALTHAM(ウォルサム)という超高級時計メーカーの懐中時計です。今はもう動きませんが、孫の私が大切に保管しています。祖父は、旧熊本医学専門学校を1923年頃に首席で卒業したそうですが、日本は丁度中国との戦争が始まっていて、戦時色一色に染まり、本来なら首席で卒業した学生には「恩師の銀時計」が贈られたはずだったのが、結局貰えなかったそうです。これは祖母の中村マサさんから直接私が聞いています。祖父は昭和2年、1937年に当時は離島だった大矢野島に外科医院を開業したのでした。その前年の1936年に長崎市の稲田時計店で自ら購入したのでした。時計の入れ物には右から左に時計店の銘が入っています。調べましたが、もうこの時計店は少し前に廃業していました。私は何とかこの懐中時計を再度動かせないものかと、今から20年くらい前でしたでしょうか、福岡の三越デパートにあったWALTHAMの代理店に持ち込んで調べて貰いました。スイスの本店でもアメリカの支店でももう部品が無くて、修理は不可能でした。このケースに一緒に仕舞っているのは、祖母の中村マサさんが生前愛用していた時計です。こちらは国産で、シティズン製です。CENTER SECOND 「STAR』16 JUWELSと刻印されていまして、こちらも当時は高級だったと思います。こうしてこの二つの時計を眺めていますと、遙かな時の流れを感じますし、私という存在が、先祖から脈々と続く系譜に連なっているんだなとしみじみ思います。何はともあれ、私の父、小早川俊男が海軍の特攻艇であった、人間魚雷で死ななくて良かったのと、母親中村仁子が、戦時中にアメリカ軍の戦闘機グラマンの機銃掃射で死ななくて良かったと本当に思います。敗戦後80年が経過しました。私たちの子や孫が戦争に行かなくて済む世の中にしていきたい、そう思います。
 
 
 
 
 

母方の祖父母の形見の古時計

 

災害に思うこと

1953年、白川の水害時に上通り商店街が水没しました。

私が生まれた昭和28年、1953年6月26日に熊本市で大水害が起こりました。市内を流れる白川が氾濫し、上通り、下通りの商店街は1階が全て水没しました。私をお腹に抱えていた母は、やっとの思いで友人のお店の2階に逃れて、難を脱したと父母から聞いています。そんなことになるとは思っていなかったそうです。災害はいつどんな形でやってくるか予測できませんね。

その時に溺れていたら、私は生まれていませんでした。危機一髪だったのですね。

これは自然災害でしたが、気をつければ防げる災害もありますね。これは災害と言えるかどうかわかりませんが、戦争もある意味とんでもない厄災ですね。

母はお転婆だったようです。太平洋戦争終盤、アメリカ軍のグラマン戦闘機が天草に飛来した時に、その戦闘機を見るために、屋根に昇ったそうです。そしたら、その戦闘機が機銃掃射をして、母の両脇を弾が跳ねていったと、笑いながら言っていました。その時に戦闘機のパイロットと目が合ったとのことです。アメリカ軍の兵士が、からかったのでしょう。それにしても、その時に被弾していれば、母は命を落としていたと思います。そこでも助かったのでした。

こうしてみると、私という人間がこの世に生を受けたのは、偶然のたまものと言えるかもしれませんね。

日本は自然災害が多い国です。これからもいろいろとあるのでしょう。危機感を持って日々を過ごしたいと、そう思います。

 

福岡からソウルへの旅:移動の仕方

福岡空港国際線ターミナル


ソウルへの旅

1.福岡空港から仁川(インチョン)空港まで

A.

福岡空港国際線ターミナルビル3階の、各航空会社の搭乗受付チェックインカ

ウンターにて、チェックインします。その際にパスポートと航空会社から届い

ている予約情報(スマホに保存している情報など)が必要です。

チェックインカウンターに行く前に、自動チェックイン機で、搭乗者のパス

ポートを読み込んで、チェックイン予約券を発券する場合があります。

その後、チェックインカウンターで、パスポートを見せて、正規の航空券を

発券してもらいます。その際に預け入れの荷物を預けます。荷物の引換券も貰

います。

B.

保安検査場にて航空機に持ち込む荷物の検査を受けます。

C.

出国審査カウンターでパスポート、搭乗券を提示して、出国検査を受けます。

その際に、顔認証ゲートで、カメラで顔を撮影し、係官がパスポートの顔と

照合します。

C.

保安検査場から搭乗ゲートまでの間に、免税店があります。

搭乗口で、パスポート、搭乗券を提示して、飛行機に乗り込みます。

2.飛行機機内で

約1時間30分かかります。

航空会社によっては機内食がサービスされることもあります。

1

3.仁川(インチョン)空港に到着後入国まで

A.

あらかじめ飛行機内で、健康状態質問書や韓国への入国目的、宿泊場所など

を記載する簡単な質問書を受け取りますので、それに

記載します。

検疫台を通過します。

B.

入国審査を受けます。その際に、パスポートと搭乗券のチェックがあります。

両手の人差し指の指紋登録をします。

入国審査官が、顔認証を行います。

C.

手荷物を受け取るために1階に移動します。

手荷物を受け取ります。

韓国に入国します。

Incheon空港内コンビニ

4.仁川(インチョン)空港コンビニにて

T moneyカードを購入します。

300円で購入できます。チャージは1000ウォンからできます。最大50

万ウォンまでです。このカードで、バスや地下鉄、コンビニなどで支払いが

できます。また地下鉄駅やコンビニでチャージできます。

Incheon空港からソウル市内へのリムジンバス

5.仁川(インチョン)空港からソウル市内まで

の移動

インチョン空港には、第一ターミナルビルと第二ターミナルビルがあります。

二つのターミナル間の移動には、無料シャトルバスか有料の空港鉄道、または

タクシーを使うことになります。

ANA やアシアナ航空、チェジュ航空は第一ターミナルで、大韓航空やJALや

ジンエアーは第二ターミナルになります。

インチョン空港第一ターミナルの場合は、ターミナルビルを出てすぐの所に、

リムジンバス乗り場があります。

5B-2の乗り場からは、ソウル市内明洞のホテルまでの直行便が出ています。

料金は1,700ウォンです。

3Bや 4Aなどからもリムジンが出ています。

それぞれ向かうホテルが異なりますので、宿泊するホテルの位置をあらかじめ

調べておくといいでしょう。

リムジンバスに乗る際にトロリーケースを預ける事ができます。

引換券を貰います。降りる際に引換券と、トロリーケースに貼った券とを照合

しますので、引換券は大事に保管してください。

バスに乗り込む際に、Tmoneyカードをスキャンさせて乗り込みます。

席は自由席です。空いている席にどうぞ。

2宿泊するホテル、またはその近くのホテルの手前で、降車ボタンを押して運転

手さんに知らせます。降りてから、預けた荷物を引換券を見せて受け取りま

す。ホテルまで移動します。

ソウル市内ツアーバス

ソウル市内地下鉄


6.ソウル市内の移動

A.

ソウル市内での移動は、基本的には地下鉄が便利です。

その際に役立つアプリがあります。

「コネスト韓国地下鉄路線図」です。無料のアプリで、乗り換え検索ができま

す。「コネスト韓国地図」とも連動していますので、観光に便利です。

B.

ソウルシティーツアーバス

光化門からツアーバスが出ています。ソウル市内の人気観光スポットを巡る

シャトルバスです。オープントップバスがお勧めです。チケットを購入すれば

購入したチケットで一日中使えます。例えば気になる場所で降りて、ご飯を

食べたりしてから、後続のバスに再度乗車できます。日本語での音声ガイド

サービスもあります。

C.

タクシーも使えますが、注意が必要です。

1.

グレイ(シルバー)のタクシーです。タクシードライバーは日本語を理解でき

ませんので、目的地を書いたメモやスマートフォンで韓国語に翻訳して示しま

しょう。一般的に運転はかなり荒いです。シートベルトは必ずしっかりと締

めましょう。

2.

オレンジ色のタクシーはソウル市が認定しているタクシーです。

一番お勧めです。

黒色のタクシーは「模範タクシー」と呼ばれていますが、ほとんど法人使用

です。街中を流していることはまずありません。

3.

白色のタクシーは絶対に乗ってはいけません。問題のあるドライバーも多

く、ぼったくりの被害が絶えないそうです。以前、そうしたタクシーにうっ

3かり乗ってしまい、遠回りをされそうになりました。夕方はシルバーと白の

色違いが見えにくいことがありますので、注意してください。

ソウル市内は、3kmまで7,000ウォン(日本円で約758円)と日本

よりも料金はかなり安いです。

4.

コールタクシー

配車アプリを使って利用します。

韓国で有名なのは、「Kakao T」です。他には外国人観光客向けの「k.ride」

があります。これは日本語に対応しています。Google アカウントやApple ID

で会員登録できます。また、韓国以外の海外発行のクレジットカードが使えま

す。「Uber」アプリも使えます。あらかじめ日本国内で「Uber」に登録して

おく必要がありますが、韓国でもそのまま使えます。韓国国内では、Uber ま

たはUTと表記されます。

4

 

私のピアノ小史

田川市立病院、緩和ケア内科に勤務しています。今回「田川医報」からの原稿依頼をお受けしました。自由に記載してくださいとのことでしたので、私のピアノ小史として纏めてみました。

私がキーボードに触れた最初は、カワイの音楽教室の一期生だったらしいので、4,5才の時で、指に黄色や青色などのテープを巻いて、それでオルガンのキーボードを押していたのを覚えています。

小学2年生で、宮崎県日南市でピアノ教師の白方女史に指導していただきました。偶然ですが、後年私が大阪の淀川キリスト教病院に勤務した当時の白方誠彌病院長(九州大学の先輩)のお姉さんでした。

小学5年生から、北九州市戸畑で、ピアノ教師岡女史に習いました。毎週1度、自宅でレッスンを受けました。これは高校2年生まで続けました。その後は独学でしたが、ジャズやポピュラーミュージックの楽譜で練習してきました。

 医師になり、40才前後、福岡栄光病院でホスピスの医師としてのキャリアを始めました。当時はまだ緩和ケアという言葉がありませんでした。談話室で、映画音楽などをピアノで弾いていました。患者さんやご家族に喜ばれました。

その後、九州大学の先輩、故木村豊先生から招聘されまして、福岡市の木村外科病院(当時)に開設されました緩和ケア病棟に勤務しました。開設間もない緩和ケア病棟「やすらぎ」に一台のピアノを寄贈していただきました。このピアノは阪神淡路大震災で全壊した家で無傷で残り、神戸で「奇跡のピアノ」と呼ばれたピアノでした。談話室に設置されたそのピアノを時々演奏していました。当時TNCテレビが取材しまして、特集番組として放送されましたが、私がピアノを弾いている所も放送で使われました。

そこでは、オカリナとギターのユニットを夫婦でしておられる「シャーナ」にボランティアでミニコンサートをしていただきました。その後私もオカリナを独学で始めました。爾来オカリナに填まりまして、10ヶくらい購入しました。今はそのうち2つくらいを使っています。

 当時RKBラジオの林田スマさんのコーナーで、数度に亘り東洋医学について語る機会がありました。その最終回でRKBのスタジオのグランドピアノとオカリナを演奏しました。

 それから「私たちの病院に、もう一つ新しく緩和ケア病棟を作ってください。」と福岡市西区の村上華林堂病院の星野理事長先生に請われ、転任しました。新しい建物の2階、3階にホスピス棟を建設しました。新設した緩和ケア病棟のロビーに、伯母さんから譲り受けたヤマハの特注のグランドピアノを搬入し寄贈しました。そこでは盲目のバイオリニスト「川畠成道」さんと、ロンドンフィルなどとの共演者であるピアニストによるボランティアコンサートを2年続けて開催したことがありました。私もその際に少しピアノを弾いたのですが、そのイギリス人の男性ピアニストから、「Wonderful! You are nice and heartful Pianist」と言って頂けました。

 数年後、当時聖路加国際病院の理事長でした、故日野原重明先生から、先生が理事長をしておられた「ピースハウス病院」(日本最初の独立型ホスピス)に招聘されました。そこでも、立派な音楽ホールのグランドピアノを演奏していました。

 その頃だったと思いますが、武田薬品工業から、「パシーフという医療用麻薬が新しく発売されまして、社内教育用のビデオのBGMに私の演奏するピアノ曲が採用されました。

北九州市立医療センター緩和ケア病棟ラウンジのピアノ

 その後、今度は北九州市立病院の緩和ケア病棟に当時の光山昌珠病院長から招聘されました。そこでは緩和ケア病棟ラウンジのピアノとして、高校の後輩からピアノを寄贈していただきました。今でも当時弾いていたピアノの楽譜がそのピアノの上に載ったままだと思います。当時の模様を、私の著書である「緩和ケアコンサルテーション」にコラムとして掲載しましたので、ここに転記します。

 『夕方からのピアノ演奏

 今日の夕方、雨が降りしきる中、少しピアノを演奏しました。アンドレ・ギャニオン氏の曲を数曲と、西村由紀江氏の曲を2,3曲。観客はラウンジにおられた方々と病室で聴いておられる方々。患者や家族の方々ですね。・・中略・・私が緩和ケア病棟で奏でるピアノの音、それは決して派手ではなく、しかしながら一つひとつの音がそれぞれ存在感をもって、背景から浮き出るように、音量は小さいが、しっかりとしていてキレがある、バッハの音楽のような音、そのことを中学生、高校生になるにつれてはっきりと自覚するようになった私のピアノの原点です。中略・・、やがて皆亡くなっていく、そのような厳しい状況で凜とした音、ホッとできる音を聴けることは幸せだとそう思います。

 人生の最期まで文化的に豊かであること、時分らしさを失わないこと、凜として、そしてホッと寛げる。

 今夜も演奏が終了したときに、ある患者の家族が「素晴らしい」といって拍手をしてくださいました。私の心がこの方の心に届いたのですね。

 音楽は一瞬にして、音を通してコミュニケーションができます。私に与えられたピアノ演奏という才能、タラントがこんな形で用いられていることに感謝します。私はきっと息を引き取る時まで、ピアノを演奏することが大好きなのでしょうね。』「緩和ケアコンサルテーション」南江堂 2012年5月10日発行 132〜133ページから引用

独立行政法人旭中央病院緩和ケア病棟ラウンジのピアノ

そこから、今度は千葉県旭市にあります、979床と、日本で一番大きな公的病院である「独立行政法人旭中央病院」の緩和ケアセンター長として招聘されました。そこの緩和ケア病棟にも千葉興業銀行から寄贈されたピアノがありましたので、病棟の催しや日々のお茶会で、演奏しました。

 現在田川に赴いて5年目になりました。2023年4月1日、当院の6階西病棟を改築しまして、ベッド数16の緩和ケア病棟が開設されました。これまで田川地区には緩和ケア病棟が無かったため、がん末期の患者さんは飯塚地区や福岡地区、北九州地区などの病院で最期を迎えることが多かったのです。住み慣れた我が家に近い田川で、最後まで暮らすことが可能になりました。緩和ケア病棟は全て個室です。いずれの病室も快適に過ごせるように設計されています。無料のWifiを利用できます。広い介護浴槽と一般の浴室があります。田川の街並みを一望できる多目的室やソファが設えてある広いロビーがあります。そのロビーに、昨年、当院から在宅緩和ケアを提供していた方から、ヤマハのYUS5という最高峰のアップライトピアノを寄贈していただきました。偶然にもかつて木村外科病院(当時)で頂いた「奇跡のピアノ」と同じものです。

 緩和ケア病棟の昼下がり、患者さんやご家族がホッとなさる時間を過ごして頂けるように、少し音量を抑えて、今日もピアノの鍵盤に向かっています。

 私のピアノ小史、如何でしたでしょうか。これまで緩和ケア病棟を開設するたびにピアノを寄贈していただきました。「緩和ケアの伝道師」を自認する私にとりまして、ピアノが緩和ケアとともにいつも傍にありました。これからも心に響く音を奏でていきたいと思います。

 

秋も深まってきました。

今日は2023年11月23日です。午後12時は過ぎたところです。これから西南学院大学で、講義です。講師控え室の外のケヤキがすっかり色づきました。空気がひんやりして冷たいです。年の差50才くらいの若い学生さん達にいまだに教えることができているのが不思議な感じですね。もうすぐ70の大台に乗りますので、西南学院大学での非常勤講師の仕事は終わります。これまで色々な思い出があります。緩和ケアについて、学生さん達に紹介できたのではないかなと思います。この景色もこれで最期ですね。ありがとうございました。

映画「埋葬」を観て

福岡市総合図書館映像ホール「シネラ」で上映されました。

福岡市総合図書館の映像ホール「シネラ」で、今、EUフィルムデーズ2023が開催されています。主催が、駐日欧州連合代表部、在日EU大使館・文化機関、福岡市総合図書館です。後援がウクライナ大使館です。現在ロシアによる原子爆弾の威嚇がなされています。もしも、本当に彼らがそんなことに及べば、ヨーロッパが亡ぶだけではなく、NATOの同盟国であるUSAも巻き込む世界大戦となってしまうでしょう。
 この映画のラスト数分で、ソビエト連邦が行った水爆実験の映像が流れました。投下された地球の一部は、今もそれから今後数百万年も死の土地です。チェルノブイリ原子力発電所の原子炉の入った建物は、石棺と称する構造物で外側を被っただけですから、今後数十年で人類に死をもたらす放射線がまき散らされることでしょう。
 私は、この映画は、もっと広く世界中の人々に見られなければならないと、強くそう思いました。
 都合の悪い真実に蓋をしただけでは、これから先、私たちの子どもや孫、さらにその先の子孫の安全を保障できません。
  為政者の詭弁はもうたくさんです。放射能の利用は、医療現場だけにしていただきたいですね。
 東日本大震災の際に、東北は被爆しました。私は郡山美術館に3年前に数度訪れてましたが、その都度、放射能汚染された土を削り、どこかに保管するために袋詰めされた構造物が至るところに置いてあるのを目にしました。あれは、ぞっとする光景です。
 人類は、厄介なものを生み出してしまいました。ただの産業廃棄物とは事なり、これから先数百万年たっても放射能を放射し続ける高度放射能廃棄物、これの処理技術はまだまだ確立されていません。結局の所、地中深く埋めるしかないのですが、日本は地震国で、至るところに断層が走っています。もし、埋めたところの地層が数十年後、数百年後、数千年後にズレてしまえば、埋めた放射能廃棄物の覆いが破れてしまい、日本人に放射能被曝を起こすのです。
 福島の原発の被災で、日本人は大きなショックを受けた筈です。まだあれからそんなに時間は経過していないのですが、もう原発の怖さを忘れてしまったのでしょうか。それに、炉心に使った放射性物質の処理技術は、全然確立されていないのです。これを疎かにしていて、原発を再稼働させるのは、とうてい納得できません。
 原子爆弾や水爆を使った戦争がたとえ起こらなくても、人類は原子力発電からでる高濃度、あるいは中濃度や低濃度と分類されてはいますが、結局数万年、数百万年以上も人体に有害な放射線を出し続ける廃棄物の呪縛からは逃れられないのです。
 人類は、本当にやっかいなものを生み出してしまいました。これを今後どうするのか、地球温暖化の問題と双璧の問題です。今後人類はエネルギー源として、安全なもの、原子力以外のものを開発する必要に迫られています。