aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

災害に思うこと

1953年、白川の水害時に上通り商店街が水没しました。

私が生まれた昭和28年、1953年6月26日に熊本市で大水害が起こりました。市内を流れる白川が氾濫し、上通り、下通りの商店街は1階が全て水没しました。私をお腹に抱えていた母は、やっとの思いで友人のお店の2階に逃れて、難を脱したと父母から聞いています。そんなことになるとは思っていなかったそうです。災害はいつどんな形でやってくるか予測できませんね。

その時に溺れていたら、私は生まれていませんでした。危機一髪だったのですね。

これは自然災害でしたが、気をつければ防げる災害もありますね。これは災害と言えるかどうかわかりませんが、戦争もある意味とんでもない厄災ですね。

母はお転婆だったようです。太平洋戦争終盤、アメリカ軍のグラマン戦闘機が天草に飛来した時に、その戦闘機を見るために、屋根に昇ったそうです。そしたら、その戦闘機が機銃掃射をして、母の両脇を弾が跳ねていったと、笑いながら言っていました。その時に戦闘機のパイロットと目が合ったとのことです。アメリカ軍の兵士が、からかったのでしょう。それにしても、その時に被弾していれば、母は命を落としていたと思います。そこでも助かったのでした。

こうしてみると、私という人間がこの世に生を受けたのは、偶然のたまものと言えるかもしれませんね。

日本は自然災害が多い国です。これからもいろいろとあるのでしょう。危機感を持って日々を過ごしたいと、そう思います。

 

福岡からソウルへの旅:移動の仕方

福岡空港国際線ターミナル


ソウルへの旅

1.福岡空港から仁川(インチョン)空港まで

A.

福岡空港国際線ターミナルビル3階の、各航空会社の搭乗受付チェックインカ

ウンターにて、チェックインします。その際にパスポートと航空会社から届い

ている予約情報(スマホに保存している情報など)が必要です。

チェックインカウンターに行く前に、自動チェックイン機で、搭乗者のパス

ポートを読み込んで、チェックイン予約券を発券する場合があります。

その後、チェックインカウンターで、パスポートを見せて、正規の航空券を

発券してもらいます。その際に預け入れの荷物を預けます。荷物の引換券も貰

います。

B.

保安検査場にて航空機に持ち込む荷物の検査を受けます。

C.

出国審査カウンターでパスポート、搭乗券を提示して、出国検査を受けます。

その際に、顔認証ゲートで、カメラで顔を撮影し、係官がパスポートの顔と

照合します。

C.

保安検査場から搭乗ゲートまでの間に、免税店があります。

搭乗口で、パスポート、搭乗券を提示して、飛行機に乗り込みます。

2.飛行機機内で

約1時間30分かかります。

航空会社によっては機内食がサービスされることもあります。

1

3.仁川(インチョン)空港に到着後入国まで

A.

あらかじめ飛行機内で、健康状態質問書や韓国への入国目的、宿泊場所など

を記載する簡単な質問書を受け取りますので、それに

記載します。

検疫台を通過します。

B.

入国審査を受けます。その際に、パスポートと搭乗券のチェックがあります。

両手の人差し指の指紋登録をします。

入国審査官が、顔認証を行います。

C.

手荷物を受け取るために1階に移動します。

手荷物を受け取ります。

韓国に入国します。

Incheon空港内コンビニ

4.仁川(インチョン)空港コンビニにて

T moneyカードを購入します。

300円で購入できます。チャージは1000ウォンからできます。最大50

万ウォンまでです。このカードで、バスや地下鉄、コンビニなどで支払いが

できます。また地下鉄駅やコンビニでチャージできます。

Incheon空港からソウル市内へのリムジンバス

5.仁川(インチョン)空港からソウル市内まで

の移動

インチョン空港には、第一ターミナルビルと第二ターミナルビルがあります。

二つのターミナル間の移動には、無料シャトルバスか有料の空港鉄道、または

タクシーを使うことになります。

ANAアシアナ航空、チェジュ航空は第一ターミナルで、大韓航空JAL

ジンエアーは第二ターミナルになります。

インチョン空港第一ターミナルの場合は、ターミナルビルを出てすぐの所に、

リムジンバス乗り場があります。

5B-2の乗り場からは、ソウル市内明洞のホテルまでの直行便が出ています。

料金は1,700ウォンです。

3Bや 4Aなどからもリムジンが出ています。

それぞれ向かうホテルが異なりますので、宿泊するホテルの位置をあらかじめ

調べておくといいでしょう。

リムジンバスに乗る際にトロリーケースを預ける事ができます。

引換券を貰います。降りる際に引換券と、トロリーケースに貼った券とを照合

しますので、引換券は大事に保管してください。

バスに乗り込む際に、Tmoneyカードをスキャンさせて乗り込みます。

席は自由席です。空いている席にどうぞ。

2宿泊するホテル、またはその近くのホテルの手前で、降車ボタンを押して運転

手さんに知らせます。降りてから、預けた荷物を引換券を見せて受け取りま

す。ホテルまで移動します。

ソウル市内ツアーバス

ソウル市内地下鉄


6.ソウル市内の移動

A.

ソウル市内での移動は、基本的には地下鉄が便利です。

その際に役立つアプリがあります。

「コネスト韓国地下鉄路線図」です。無料のアプリで、乗り換え検索ができま

す。「コネスト韓国地図」とも連動していますので、観光に便利です。

B.

ソウルシティーアーバス

光化門からツアーバスが出ています。ソウル市内の人気観光スポットを巡る

シャトルバスです。オープントップバスがお勧めです。チケットを購入すれば

購入したチケットで一日中使えます。例えば気になる場所で降りて、ご飯を

食べたりしてから、後続のバスに再度乗車できます。日本語での音声ガイド

サービスもあります。

C.

タクシーも使えますが、注意が必要です。

1.

グレイ(シルバー)のタクシーです。タクシードライバーは日本語を理解でき

ませんので、目的地を書いたメモやスマートフォンで韓国語に翻訳して示しま

しょう。一般的に運転はかなり荒いです。シートベルトは必ずしっかりと締

めましょう。

2.

オレンジ色のタクシーはソウル市が認定しているタクシーです。

一番お勧めです。

黒色のタクシーは「模範タクシー」と呼ばれていますが、ほとんど法人使用

です。街中を流していることはまずありません。

3.

白色のタクシーは絶対に乗ってはいけません。問題のあるドライバーも多

く、ぼったくりの被害が絶えないそうです。以前、そうしたタクシーにうっ

3かり乗ってしまい、遠回りをされそうになりました。夕方はシルバーと白の

色違いが見えにくいことがありますので、注意してください。

ソウル市内は、3kmまで7,000ウォン(日本円で約758円)と日本

よりも料金はかなり安いです。

4.

コールタクシー

配車アプリを使って利用します。

韓国で有名なのは、「Kakao T」です。他には外国人観光客向けの「k.ride」

があります。これは日本語に対応しています。Google アカウントやApple ID

で会員登録できます。また、韓国以外の海外発行のクレジットカードが使えま

す。「Uber」アプリも使えます。あらかじめ日本国内で「Uber」に登録して

おく必要がありますが、韓国でもそのまま使えます。韓国国内では、Uber

たはUTと表記されます。

4

 

私のピアノ小史

田川市立病院、緩和ケア内科に勤務しています。今回「田川医報」からの原稿依頼をお受けしました。自由に記載してくださいとのことでしたので、私のピアノ小史として纏めてみました。

私がキーボードに触れた最初は、カワイの音楽教室の一期生だったらしいので、4,5才の時で、指に黄色や青色などのテープを巻いて、それでオルガンのキーボードを押していたのを覚えています。

小学2年生で、宮崎県日南市でピアノ教師の白方女史に指導していただきました。偶然ですが、後年私が大阪の淀川キリスト教病院に勤務した当時の白方誠彌病院長(九州大学の先輩)のお姉さんでした。

小学5年生から、北九州市戸畑で、ピアノ教師岡女史に習いました。毎週1度、自宅でレッスンを受けました。これは高校2年生まで続けました。その後は独学でしたが、ジャズやポピュラーミュージックの楽譜で練習してきました。

 医師になり、40才前後、福岡栄光病院でホスピスの医師としてのキャリアを始めました。当時はまだ緩和ケアという言葉がありませんでした。談話室で、映画音楽などをピアノで弾いていました。患者さんやご家族に喜ばれました。

その後、九州大学の先輩、故木村豊先生から招聘されまして、福岡市の木村外科病院(当時)に開設されました緩和ケア病棟に勤務しました。開設間もない緩和ケア病棟「やすらぎ」に一台のピアノを寄贈していただきました。このピアノは阪神淡路大震災で全壊した家で無傷で残り、神戸で「奇跡のピアノ」と呼ばれたピアノでした。談話室に設置されたそのピアノを時々演奏していました。当時TNCテレビが取材しまして、特集番組として放送されましたが、私がピアノを弾いている所も放送で使われました。

そこでは、オカリナとギターのユニットを夫婦でしておられる「シャーナ」にボランティアでミニコンサートをしていただきました。その後私もオカリナを独学で始めました。爾来オカリナに填まりまして、10ヶくらい購入しました。今はそのうち2つくらいを使っています。

 当時RKBラジオの林田スマさんのコーナーで、数度に亘り東洋医学について語る機会がありました。その最終回でRKBのスタジオのグランドピアノとオカリナを演奏しました。

 それから「私たちの病院に、もう一つ新しく緩和ケア病棟を作ってください。」と福岡市西区の村上華林堂病院の星野理事長先生に請われ、転任しました。新しい建物の2階、3階にホスピス棟を建設しました。新設した緩和ケア病棟のロビーに、伯母さんから譲り受けたヤマハの特注のグランドピアノを搬入し寄贈しました。そこでは盲目のバイオリニスト「川畠成道」さんと、ロンドンフィルなどとの共演者であるピアニストによるボランティアコンサートを2年続けて開催したことがありました。私もその際に少しピアノを弾いたのですが、そのイギリス人の男性ピアニストから、「Wonderful! You are nice and heartful Pianist」と言って頂けました。

 数年後、当時聖路加国際病院の理事長でした、故日野原重明先生から、先生が理事長をしておられた「ピースハウス病院」(日本最初の独立型ホスピス)に招聘されました。そこでも、立派な音楽ホールのグランドピアノを演奏していました。

 その頃だったと思いますが、武田薬品工業から、「パシーフという医療用麻薬が新しく発売されまして、社内教育用のビデオのBGMに私の演奏するピアノ曲が採用されました。

北九州市立医療センター緩和ケア病棟ラウンジのピアノ

 その後、今度は北九州市立病院の緩和ケア病棟に当時の光山昌珠病院長から招聘されました。そこでは緩和ケア病棟ラウンジのピアノとして、高校の後輩からピアノを寄贈していただきました。今でも当時弾いていたピアノの楽譜がそのピアノの上に載ったままだと思います。当時の模様を、私の著書である「緩和ケアコンサルテーション」にコラムとして掲載しましたので、ここに転記します。

 『夕方からのピアノ演奏

 今日の夕方、雨が降りしきる中、少しピアノを演奏しました。アンドレ・ギャニオン氏の曲を数曲と、西村由紀江氏の曲を2,3曲。観客はラウンジにおられた方々と病室で聴いておられる方々。患者や家族の方々ですね。・・中略・・私が緩和ケア病棟で奏でるピアノの音、それは決して派手ではなく、しかしながら一つひとつの音がそれぞれ存在感をもって、背景から浮き出るように、音量は小さいが、しっかりとしていてキレがある、バッハの音楽のような音、そのことを中学生、高校生になるにつれてはっきりと自覚するようになった私のピアノの原点です。中略・・、やがて皆亡くなっていく、そのような厳しい状況で凜とした音、ホッとできる音を聴けることは幸せだとそう思います。

 人生の最期まで文化的に豊かであること、時分らしさを失わないこと、凜として、そしてホッと寛げる。

 今夜も演奏が終了したときに、ある患者の家族が「素晴らしい」といって拍手をしてくださいました。私の心がこの方の心に届いたのですね。

 音楽は一瞬にして、音を通してコミュニケーションができます。私に与えられたピアノ演奏という才能、タラントがこんな形で用いられていることに感謝します。私はきっと息を引き取る時まで、ピアノを演奏することが大好きなのでしょうね。』「緩和ケアコンサルテーション」南江堂 2012年5月10日発行 132〜133ページから引用

独立行政法人旭中央病院緩和ケア病棟ラウンジのピアノ

そこから、今度は千葉県旭市にあります、979床と、日本で一番大きな公的病院である「独立行政法人旭中央病院」の緩和ケアセンター長として招聘されました。そこの緩和ケア病棟にも千葉興業銀行から寄贈されたピアノがありましたので、病棟の催しや日々のお茶会で、演奏しました。

 現在田川に赴いて5年目になりました。2023年4月1日、当院の6階西病棟を改築しまして、ベッド数16の緩和ケア病棟が開設されました。これまで田川地区には緩和ケア病棟が無かったため、がん末期の患者さんは飯塚地区や福岡地区、北九州地区などの病院で最期を迎えることが多かったのです。住み慣れた我が家に近い田川で、最後まで暮らすことが可能になりました。緩和ケア病棟は全て個室です。いずれの病室も快適に過ごせるように設計されています。無料のWifiを利用できます。広い介護浴槽と一般の浴室があります。田川の街並みを一望できる多目的室やソファが設えてある広いロビーがあります。そのロビーに、昨年、当院から在宅緩和ケアを提供していた方から、ヤマハのYUS5という最高峰のアップライトピアノを寄贈していただきました。偶然にもかつて木村外科病院(当時)で頂いた「奇跡のピアノ」と同じものです。

 緩和ケア病棟の昼下がり、患者さんやご家族がホッとなさる時間を過ごして頂けるように、少し音量を抑えて、今日もピアノの鍵盤に向かっています。

 私のピアノ小史、如何でしたでしょうか。これまで緩和ケア病棟を開設するたびにピアノを寄贈していただきました。「緩和ケアの伝道師」を自認する私にとりまして、ピアノが緩和ケアとともにいつも傍にありました。これからも心に響く音を奏でていきたいと思います。

 

秋も深まってきました。

今日は2023年11月23日です。午後12時は過ぎたところです。これから西南学院大学で、講義です。講師控え室の外のケヤキがすっかり色づきました。空気がひんやりして冷たいです。年の差50才くらいの若い学生さん達にいまだに教えることができているのが不思議な感じですね。もうすぐ70の大台に乗りますので、西南学院大学での非常勤講師の仕事は終わります。これまで色々な思い出があります。緩和ケアについて、学生さん達に紹介できたのではないかなと思います。この景色もこれで最期ですね。ありがとうございました。

映画「埋葬」を観て

福岡市総合図書館映像ホール「シネラ」で上映されました。

福岡市総合図書館の映像ホール「シネラ」で、今、EUフィルムデーズ2023が開催されています。主催が、駐日欧州連合代表部、在日EU大使館・文化機関、福岡市総合図書館です。後援がウクライナ大使館です。現在ロシアによる原子爆弾の威嚇がなされています。もしも、本当に彼らがそんなことに及べば、ヨーロッパが亡ぶだけではなく、NATOの同盟国であるUSAも巻き込む世界大戦となってしまうでしょう。
 この映画のラスト数分で、ソビエト連邦が行った水爆実験の映像が流れました。投下された地球の一部は、今もそれから今後数百万年も死の土地です。チェルノブイリ原子力発電所の原子炉の入った建物は、石棺と称する構造物で外側を被っただけですから、今後数十年で人類に死をもたらす放射線がまき散らされることでしょう。
 私は、この映画は、もっと広く世界中の人々に見られなければならないと、強くそう思いました。
 都合の悪い真実に蓋をしただけでは、これから先、私たちの子どもや孫、さらにその先の子孫の安全を保障できません。
  為政者の詭弁はもうたくさんです。放射能の利用は、医療現場だけにしていただきたいですね。
 東日本大震災の際に、東北は被爆しました。私は郡山美術館に3年前に数度訪れてましたが、その都度、放射能汚染された土を削り、どこかに保管するために袋詰めされた構造物が至るところに置いてあるのを目にしました。あれは、ぞっとする光景です。
 人類は、厄介なものを生み出してしまいました。ただの産業廃棄物とは事なり、これから先数百万年たっても放射能を放射し続ける高度放射能廃棄物、これの処理技術はまだまだ確立されていません。結局の所、地中深く埋めるしかないのですが、日本は地震国で、至るところに断層が走っています。もし、埋めたところの地層が数十年後、数百年後、数千年後にズレてしまえば、埋めた放射能廃棄物の覆いが破れてしまい、日本人に放射能被曝を起こすのです。
 福島の原発の被災で、日本人は大きなショックを受けた筈です。まだあれからそんなに時間は経過していないのですが、もう原発の怖さを忘れてしまったのでしょうか。それに、炉心に使った放射性物質の処理技術は、全然確立されていないのです。これを疎かにしていて、原発を再稼働させるのは、とうてい納得できません。
 原子爆弾や水爆を使った戦争がたとえ起こらなくても、人類は原子力発電からでる高濃度、あるいは中濃度や低濃度と分類されてはいますが、結局数万年、数百万年以上も人体に有害な放射線を出し続ける廃棄物の呪縛からは逃れられないのです。
 人類は、本当にやっかいなものを生み出してしまいました。これを今後どうするのか、地球温暖化の問題と双璧の問題です。今後人類はエネルギー源として、安全なもの、原子力以外のものを開発する必要に迫られています。

私の夢


西南学院大学人間科学部社会福祉学科で、今年の秋冬に、2年生から4年生に向けて教えます「医学一般Ⅱ」の講義のテキストに、選びました。
 昨年から読んでいますが、素晴らしい内容です。
無味乾燥になり勝ちな医学の講義ですが、この方の語る医学は、医師や看護師ではない、一般の方々に向けて、認知症やがんなどの話題も織り交ぜながら、退屈させない内容です。皆さまにも自信をもってお勧めいたします。(*^。^*)
 以前、慶応大学からの出版で、東洋医学に関する論文を発表させていただきました。その際のスマートなやり取りを思い出します。流石に慶応大学は、ひと味違います。また、メルボルンホスピスの視察に赴いたとき、市内で一番高いタワーのレストランで偶然慶応大学病院の看護師さんたちと遭遇しまして、彼女たちもまたホスピス視察で来ていたのですが、一緒に食事をしましょうということになりまして、和気あいあいと、仲良くなったことも思い出します。
 ただ、いまだに、緩和ケア病棟ができたという話は聞いていません。
 メルボルンでは、カリタス・クリスティというカソリックの団体がありまして、彼らはメルボルン大学医学部緩和医療講座と協力して、県立病院の中に緩和ケア病棟を、また少し離れた峡谷に近い高台にホスピスを造って運営していました。そして、ホスピス・緩和ケアの研究所、教育センターも運営し、世界中から研究者や大学院の学生、また医学部の卒前教育、そしてクリニックの医師へ向けた卒後教育を推進していました。そして、これが肝心なのですが、地域のボランティアのリクルートも熱心に行っていました。
 そのような夢のような施設は、日本では望めませんが、いやなに、最近ではZOOMもありますしね。まだまだ諦めてはいません。(*^。^*)🛫

装丁が美しく小さな本が大好きです

10年くらい前までは、こんな素敵で小さな本が、それこそ高取商店街の小さな小さな街の本屋さんを覗くと見つけることができたものですが・・今はもうそんな小さな本屋さんがほとんど消えてしまいました。残念です。東京にたまに行きますと、そんな小さな本屋さんが残っていたり、または若い人が敢えてそんな本屋さんを新規に開店したりしています。福岡でも、そんな文化が欲しいです。この本はたまたま博多`KITTEのREC  COFFEEで、前から欲しかったVARISTA用の電気ケトルを思い切って購入しましたが、その時にお店の向かいのHMVで、これもたまたま見かけた本です。私は、こんな体裁で、こんなような表紙の本が大好きです。ですので、自分でもそんな本をいつか作ってみたいと思います。小さな本屋さんに小さな本ばかりを集めたお店、今私がやってみたいコンセプトですね。

 

私の心臓と弟とお墓

私と弟
最近、心臓に違和感を覚えていました。ときどき動悸がし、5月の連休明けから、血圧も188/110などとベラボーなことに、一時期なりまして、これはいかんな〜と思いました。
 数年前まで東京広尾の日赤医療センターで、循環器内科の副部長でかつ日赤医療センター全体の診療統括副部長だった、心カテ、インターベンション治療というそうなのですが、日本でも指折りの専門家である弟に観てもらいに東京まで参りました。
 血液検査から始まり、胸部X線写真、心エコー、上腹部エコーまで、一通りの検査を終えまして、その結果、「兄ちゃんの心臓は大丈夫、僕があと10年は問題ないと保障します。」と太鼓判を押していただきました。
 私が循環器だけでは無く、最先端医療のスペシャリストと認定しているゴッドハンドにそう言ってもらえ、本当に良かったです。
 あと、内科的な診察もしてもらいましたが、「内臓もどこも異常ないよ。血液検査でも中性脂肪コレステロール、ALTなど肝臓や腎臓など、特に異常はないですね。
  BUNが20.4と僅かに高いけど、夏場で暑いので、水分はよく取ってくださいね。それくらいかな。心臓に少し脂肪がついているけど、これくらいは正常範囲内です。肥満でもないし・・。ああ、そうだ。エコーで確認したから本当はしなくてもいいのだけれどもね、僕は聴診器を当てているので、聴いてみるね。うん、大丈夫。」とのことでした。
「たぶん、忙しすぎて、PVCか何かの不整脈が出ていたんだろうね。それよりも、兄ちゃんの心電図が僕のとそっくり同じだったのには驚きました。」と、あと10年は臨床医として働けるとのご託宣でした。
2024年からの医師の働き方改革法案では、私はB水準に該当する病院に勤務していますが、それでは時間外労働は月100時間未満と決められています。
 私の場合は、月曜日から木曜日までの勤務ですが、毎日20時から21時、時には22時まで働いていました。
 ちゃんと計算してはいないのですが、合計すると60時間から70時間の時間外労働だったことになります。一見すると100時間未満だから良さそうですが、私以外誰も居残っていない病院を後にするとき、かなりの疲労感を覚えていましたね。
 今度の受診で判りましたのは、器質的に異常は無くとも、毎日毎日疲れるまで仕事をしてはいけない、ということですね。
 夜は、丸の内に最近新しくできた、三菱グループのピカピカのビルで、イタリアンを一緒にできました。
 弟は小倉高校を出るまでは戸畑の教会の牧師館にいました。浪人を東京の駿台予備校特待生で過ごし、東京大学の理科3類へ、そして医学部に進学しましたが、喫茶店のマスターなどいくつかバイトを掛け持ちして、医学を修めました。東京に戸建てを建てて、40年は東京で生活しています。実家は牧師館でしたが、いまはもう教会も牧師館も跡形も無く取り壊されて、民間の住宅になっています。
 牧師夫妻だった両親は天国に召されています。もともと日本の牧師というものは、普通はこの世に自己所有の持ち家はありません。弟が帰る、そうですね日本式にいいますと、実家はありません。来年あたり、私のいるこの田川に遊びにおいでと言ったことでした。
 一昨日の晩は、戸畑で過ごした日々を想いだしながら、和やかな時を共有できて、本当に良かったです。来年の再会を約して、丸の内をあとにしました。
 レンタカーを成田に返し、新しくなった成田国際空港で、飛行機を待っていましたら、「今日お墓が完成しました。納骨はいつにしましょうか?一週間前までにご連絡ください・・」との電話がありました。
 やっと完成しました。近いうちに両親と伯母の遺骨を納めに行きます。これで肩の荷がだいぶ軽くなります。家は無くとも、日本では、亡くなった人の遺骨をどこかには納めなければなりませんからね。どのみち死んでしまったら家なんて何の価値もありませんが、お墓は、それを継ぐ者がいればの話ですが、必要ですね。
 これも、両親からのプレゼントかな。

緩和ケア病棟のクラークさん、実はとても大変な仕事で、とても大事な存在です。夜道を照らす月のように。

今日も一日頑張りました。私もですが、緩和ケアのクラークさん、八面六臂の大活躍です。
 新患外来の準備、ご本人ご家族への聴き取り、各種書類へのサインを促し、緩和ケア入棟依頼書の案内とサインをいただき、そしてその間にも他院からの問い合わせが絶え間なくあります。その一つ一つに丁寧に受け答えし、入院している患者さんのご家族の面会(当院では新型コロナ感染症には最大限の警戒を解いていません。)のやりくり、交通整理、そして院内各部署とのやりとりがなど、絶え間なく続きます。
 いつもテキパキと、相手に不快な思いをさせずに、しかし、言うべきことはしっかり伝え、齟齬を来さないように気配りをすることは、並大抵の秘書では務まりません。その上に、緩和ケア病棟ならではの各種統計作業、PCへの患者情報の打ち込み、毎日の患者さんの情報シートの更新、緩和ケアチームの要望への対応など枚挙にいとまありません。
 大変な作業であり、気を遣う仕事だと思います。今は得がたい人材だと思います。
最初にも書きましたが、もう少し言葉を紡いでおこうと思います。
緩和ケア病棟のクラークさんは、片手間では務まりません。専属でないといけません。気が利いていて、当意即妙、芯は強くて伝えるべきことはしっかり伝えるが、相手に不快な思いをさせないような気配りも必要です。その上にPCの技術も要りますし、毎日の患者情報シートの更新、他所の病院やクリニックとの情報のやりとり、患者さんへの面会の交通整理、緩和ケアチームや院内各部署との折衝、緩和ケア病棟での勉強会や市民公開講座の準備と当日の受けつけ、オンラインで発信している各種の勉強会の準備と当日のホストPCの操作やクレームなどへの対応などなど、もう枚挙にいとまがありません。いわば、緩和ケア病棟がちゃんと機能するために無くてはならない重要でありかつ誰でもはできない仕事なのです。
このことを理解しているスタッフがどれくらいいるのでしょうか。私は、この仕事は現場で覚えることも大事ですが、やはりセンスがあって、この仕事に対しての心構えと覚悟がいると考えています。
  今日の新患外来の方が、そのまま入院しました。症状緩和と並行して、山の麓の自宅の環境調整を行い、早ければ月曜日にでもご自宅へ戻してさし上げます。その後は当院から片道ギリ15kmの距離ですが、訪問看護と訪問診療を開始します。
 とても忙しかったので、本当は夕方に七夕会をささやかながら、私のピアノとオカリナでする予定だったのですが、お流れになりました。でもその練習を聴いていた患者さんが、『楽しかった。」と仰っていただけました。
 緩和ケアの医師、スタッフ冥利に尽きますね。
今夜は月灯りがあり、星々も顔を出しています。静かです。トンボが飛び、虫が鳴いています。
 明日は雨だそうですが、酷く降りませんように。
皆さま、お休みなさいませ。いい夢を観てくださいね。