aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

苔、植物の寄せ植えに、小さな存在である人間の弱さ、愚かさに思いを馳せる。

天神ソラリアプラザ、B1のP2で購入した苔の寄せ植えの鉢です。少し枯れていた苔もありましたが、1週間掛けて植え替えしていただきました。綺麗に蘇りました。シダ類や、苔類、それに枯れ木、山小屋、台地、沢など、野趣に富んでいます。フィギュアも置かれています。ここに野鳥や小動物なんかを置くと良さそうです。これから少しずつ手を入れていきたいですね。小宇宙です。考えてみれば、私たちが居住しているこの地球も、宇宙から見れば小さな、本当に小さな存在です。こんな小さい惑星で、争い事が絶えないのは悲しいです。
 バイブルには、「あなた方は誰が誰よりも偉いとか、いや私が一番偉いとか言っていますが、愚かなことです。神はあなた方に十分な知恵を授けているのに、どうして有効に使わないのですか。」とイエスが言われた旨の記述があります。
 十二使徒アポストロフィ)と後世称えられあがめられてきた聖人とされている者たちもその内実は、妬み、嫉み、足の引っ張り合いをしていて、イエスを悲しませたことが、ちゃんとバイブルには記載されています。ニケーアの公会議で正式にバイブルと認定された巻物の中に、そのことが記載されています。まして言わんや凡人の私たち、妬みや嫉み、足の引っ張り合いをしないように気をつけないといけませんね。
 人の知恵は、浜の砂の一つにも及ばない、浅はかなものですが、神はそんな私たちを憐れみ、安らかになりなさいと確かな救済の業を繰り出しておられます。しかし傲慢で身の程知らずな私たちは、折角神から与えられたこの地球を汚し、殺し合いをし、環境を破壊し、やがては誰も住めなくなるまで、省みようとしていないように思われてなりません。今日この小宇宙を見て、心が落ち着くと同時に、人間の業の深さにも思いをいたしています。ただ、旧約の詩人たちや、コヘレトの言うが如く、神に全てを任せ、「地には平和を、天には神の栄光が成るように。」とお祈りいたします。人間の悩みを神が全て聞き入れるのか、決してそんなことはないようです。禍福はあざなえる縄のごとしといいますが、今苦境に立たされていますが、それは神の大きな計画の一部だった、そんことを私はたくさん経験してきました。今の自分が一番いいと思うようにしています。「人間は動物に過ぎない。あれも死に、これも死ぬ、全ては虚しい。」とコヘレトは言います。ですが、同時に「知恵ある者も、愚者も皆等しく死ぬ。・・・結局、人は決められた寿命の中で、自分の心と体と魂を喜ばせるために」、飲み、喰い、セックスし、子孫を残し、そして時が来たならば、神の御許に行く、それが慰めになること・・。全てのことには時がある。救うこと、殺すこと、殺されること、植えるとき、抜く時、・・」と続きます。
 このような信仰が得られると、この世で、人は強く生きることができます。
まあ、私は、「それがどうしたの。」と言う気持ちを持って、これまでの人生を生きてきました。「こんな私に誰がした」なんて歌がありますが、ま、「ケ・セラ・セラ」だよねとは、今は亡き母親がよく言っていました。戸畑の教会では、赴任してすぐに追い出しに躍起になっていた教会員が大半で、第2教会を作って出て行ってしまった時、韓国語で言うところの夫(ナンピョン:便利な男)とはおよそ真反対の戦前の教育を受け、超タカ派で今から考えても、およそ理解のある夫とは言えなかった父との家庭生活、それに親戚から「クリスチャンだから」と袖にされていたとき、できの悪い子どもの将来に絶望したとき、実家のお墓には入れない現実を突きつけられたとき、夫の老いと自分自身の老い、子どもたちが育ち、家を出て行ってしまい、たまにしか会えない寂しさとか、その他細々とした嫌なことだらけ・・、考えただけで落ち込む、悲惨な現実に取り囲まれていた時、一種心の逃げ場所でもあった生来の明るさ、これは大事だったと思います。
 ホスピスや緩和ケアにあっても同じようなことだと思います。
「それがどうしたの。ケ・セラ・セラ」の気持ちでやってみると、案外スッと乗り切れたりしますから。
 それでは。

P2で購入した苔類の寄せ植え