aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

医療哲学を探求すると、医療者も患者さんも幸せな気持ちになれます。

オルガンの楽譜台に佇む WHOLE PERSON CARE
医療哲学Cafe、大分県竹田市にあります長湯温泉、大丸旅館の内湯(うちんゆ)「テイの湯」に浸かり、また外湯(そとんゆ)のラムネ温泉にも浸かり、身体と頭、心をリフレッシュさせて、それで、美味しい夕餉を召し上がったあとに寝転びながら、リラックスして、ラウンジあたりで始めたいところです。
 今回は、病院管轄のZOOMの人気が高くて予約が多く、途中で借りられなくなることがはっきりしましたので、私個人の有料ZOOMのIDとパスコードで始めます。
以下に記載します。
ミーティングID 222 928 9412
パスコード 292563
 実況は、緩和ケア病棟の多目的室からです。緩和ケア病棟のスタッフが参加します。皆さまにはオンラインでお届けします。
 5月30日は、始まりの回ですので、何故私が「医療哲学が大事」であり、それを探求する気持ちになっているのか、そこらあたりのお話をさせていただきます。スライドを用意しています。その3枚目のスライドのノートから引用します。
 「・・それに対して、このwhole person careは、「マインドフルネスにある深い気づきと臨床的調和」ということが出発点になっているようです。
 「教育編」の4ページに、ー本コース以外の選択肢はないのかーという章があります。「疲れている」「お腹が空いている」「うんざりしている」「イライラする」「集中できない」などの時に、どのようにしたら患者の話に耳を傾け、注意を再び向けることができるであろうか。死を意識することが、意志決定へ影響を与えることは医療においては不可避である。また、「ヒューマンエラー」は、アンカリング、利用可能バイアス、確証バイアス、現状維持バイアス、自信過剰バイアス、(自分や相手の)ステレオタイプなどの認知バイアスが関係する。・・どのようにしたら、「レジリエンス:困難あるいは脅威的な状況にもかかわらず、うまく適応する過程、能力、結果)」を高め、患者の診療に意味を見いだすことができるであろうか。・・患者にとって有能で役立つ医師になることを学ぶには、今この瞬間に生じている身体感覚、思考、感情に気づき、情報として検討することである。・・私はこの文章を、大坂の書店で立ち読みしました。少し酔ってはいましたが、この文章を読んだときに、私の中に雷で打たれたような感覚が湧き上がりました。「これだ、わたしが探し求めていたものは。」そうなんです、その時の感覚を大切にしたいと思い、今回の勉強会にこのテーマを選びました。これならば、ホスピス・緩和ケアに限らず、医療にとって普遍的であり、また医師だけではなく、看護師や薬剤師、およそ医療に携わる人にとって、職業人としてもまた一個の人間としてもとても大事な概念ではなかろうか、そう確信しています。・・」
 どうでしょうか、5月30日は37枚のスライドを用意しています。
夕方6時から7時までの、一応1時間ということにはなっていますが、さてどのスライドまで辿り着けますか・・ でもいいいのです、今回のこの勉強会は前に前に進むことだけが目的ではなく、行きつ戻りつして、私と皆さんの間で、温泉宿のラウンジにゆったり寛ぎながら、医療哲学談義をするかのように、行きつ戻りつして、お互いに魂が震えるような体験をすること、それこそが目的なのですから。
 ですから、6月6日以降へとバトンをわたし、そして、教育編をしばらく離れ、実践編に進んでいきたいと思っています。
 私の二つ年長の友人に、元聖路加国際病院で2005年から病院長として同院の経営に携わり、近年では「なぜ聖路加に人が集まるのか」という著書を著された福井次矢先生がおられます。先生は現在は「東京医科大学茨城医療センター病院長」としてご活躍のようです。私が職員として採用された時に、病院に戴いたのが「プロの原点としてのマナー」という薄い冊子です。彼の著書です。
 東京の、超一流の病院であり、言葉が適切かどうかわかりませんが、日本社会のエスタブリッシュメントご愛顧の病院での患者さんやご家族への接遇マナーが網羅してあります。
 原点とは何を指しているのか、そのあたりの答えが、もしかしたらこのwhole person careにあるのかもしれません。福井先生はその著書の「はじめに」で、このように書いておられます。「・・しかしだからこそ、今の医療のままでよいのかどうかは、国民全員が考えなくてはならない問題なのです。本書が、医療に携わる者と、医療を受ける可能性があるすべての人たちの相互理解を深める一助となることを願っています・・」と。
 この本は2008年9月に出版されていますが、私が聖路加国際病院理事長だった故日野原重明先生から、理事長室に呼ばれて伺ったのが2007年始めのことでした。
 福井先生は、その著書の第6章「聖路加にメディカルスクールを」の中で、「・・法改正を視野に現行制度に風穴を開けるぐらいの覚悟が必要なのかもしれません。「・・日野原先生は、メディカルスクールを国民的キャンペーンで実現しなくてはならない、と意気軒昂です。」とあります。
 丁度この時期に、理事長室で、「小早川君、聖路加にメディカルスクールを創ることが私の夢なんですがね、もしそれが達成できたら、君には緩和ケアの教授になってほしい・・」と仰いました。
 また故木村豊木村外科病院(当時)病院長は、九州大学の大先輩なのですが、私が在職中に、『小早川君、君が九州大学で緩和ケアの教授になるべきだよ。』と仰い、その実現を夢見ておられました。
 時は流れ、今、こうして医療に必ずしも恵まれているとはいえない筑豊の地にあって、自治医科大学合格者だった私にとって夢のような仕事、地域医療を牽引する仕事が与えられていることに感謝しています。
 そして、オンラインでのいわば「緩和ケアを教授する」役割を担い、これから船出しようとしています。
 西南学院大学人間科学部社会福祉学科で、「老年学」や「医学一般」を教授して十数年が経過しましたが、一コマ90分、昨年度から100分になりましたので、この授業もそれくらいの時間が本当は必要ではないかと思います。
 テキストを購入していただき、毎回予習をしていただくと理解が深まると思います。
 5月30日開講し、このテキストが一段落するまで、一緒に学んでいきます。
私たちは、何のために医療を担っているのでしょうか、また、自分の魂に栄養をやり、人生を楽しみ、あの世に行くときに、「ああ、自分の人生は満更でもなかった。願っても叶えられ無いことばかりだったが、それにも関わらず、いやそれだからこそ、こんな自分でも、自分を導いておられる存在に全幅の信頼を寄せることができるならば、最高。」と思えたらならば、それこそ思い残すことのない人生だと、そう思っています。
 しかし、まだまだあの世に呼ばれるまで、この世に留まる訳ですので、私の祖母、故中村マサさんの教え、『頭は生きているうちに使わんといけんのよ。」を思い起こし、「そうだね、おばあちゃん、その通りだよ。だから、僕も精一杯自分の頭で考えているよ。」と、先日墓参に行ったときに、墓前でそう心の中で思い、そう語りかけました。
 中村家はこれから『墓じまい」をするようです。門徒として、私の祖父母の葬儀をお願いしているお寺さんの納骨堂に永代供養してもらうと、叔父はそのように申しておりました。
孫の筆頭の私としましては毎年の墓参は、これからも続けていこうと思います。
 九州大学医学部の先輩で、精神分析学の泰斗「神田橋條治先生」にしばらく教えを請うた時期があります。彼の著書「発想の航跡 神田橋條治著作集」のあとがきにこのような文章がありました。
 字句通りのではないのですが、「・・父祖伝来のお墓に佇み、やがては自分もこの中に入るのだという思いが、不思議と穏やかな気持ちにさせてくれる・・」確かこのような文章だったと思います。私も、この頃お墓を建立していますが、そのような気持ちに初めてなることができました。
 諦念とも違い、やがてはそこに葬られると判っていますと、他のことはあまり意味を持たないな、そのような気持ちになれました。
 そのことが医療哲学とどのように関わるのか、それはこれから思索していくことにしましょう。
それでは。