aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

逃げきれた夢、でも、今からでも遅くないと誰かに後押しして貰えれば、違う人生が始まりますよ、ね。

カンヌ映画祭参加作品「逃げきれない夢」、昨日、リバーウォーク北九州で観ました。黒崎、戸畑、門司、若松など、ロケは全部北九で行われたそうです。それで、北九の地元の人たちでしょうね、たくさん観に来ていました。
 リバーウォーク北九州、本当に久しぶり。といいますか、小倉に出るのも随分と久しぶりだったような・・小学3年生のときに、宮崎県日南市から出てきて、大都会だと思いました。大きな建物、戸畑岩田屋、小倉井筒屋、ナガリ書店、電車通りにあった名前は忘れましたが、大きな書店、西鉄バス、一枝にある明治学園、中原に今もあります、九州工業大学、それになんと言っても「東洋一の吊り橋」だった若戸大橋など、めくるめく最先端の町でした。言葉が、宮崎弁とは違っていましたから、まずは言葉が違うのに慣れませんでした。今考えると、北九弁も結構方言そのものなんですがね。当時はその言葉に慣れようと、大変でした。
 父親は基督教会の牧師ですから、私有財産は皆無でした。家も土地も貯金も何もありません。後年随分困窮しましたが、そこは子どもたちが、何とかしました。
 何しろ、親戚から相続した纏まったお金を全部、教会と附属幼稚園の経営の資金にしましたからね。それでも、生存中は何とかなりました。
 今は両親は亡くなり、一部の骨だけが、骨壺に入っています。
 また、宮崎市佐土原に居住していた私の父の姉たちが3人いましたが、皆亡くなっています。
 長女の君子さんは、地元の高等師範学校を出てピアニストになりました。東京にありました毎日交響楽団などと共演していたそうでして、自宅、まあこれは私の祖父母が暮らしていた、父の実家ですが、そこに「九州音楽塾」とたいそうな名前をつけて、そこでお弟子さんをとっていました。そのお弟子さんが東京藝大などに進学すると自慢していたものです。
 彼女は生涯独身でしたから、老いて認知症になったとき、私が佐土原も家から救い出して、福岡市西区のグループホームに入れました。そこで12年暮らし、そして老衰で亡くなった、そのお骨も私が預かりました。そして、彼女を宮崎の自宅から救い出したときに、小さなお仏壇、その中に入っていた、おそらくすぐ下のこれまた生涯独身で、高校の音楽教師をしていた妹さんのお骨と思われる小さな骨壺も同時に預かることになってしまいました。これら、行方の定まらない骨壺たちを4つ、持ち歩いていました。助けて〜、神様〜ッ〜❗
 私が転居するとそのたびにそれらを一緒に持ち運んでいました。かれこれ10年前後、自宅のリビングで、丸善で購入した大きな本棚の右の段にそれぞれ1段ずつをあてがい、その棚に安置していました。
今度、2023年7月末に、いよいよ私たちのお墓が完成します。
これでやっと、両親と伯母たちのお骨を安置することができます。私たち夫妻が、旗揚げをして、完成させます。これで私たちも、それから希望すれば子どもや孫たちも、このお墓に眠ることができます。
 そう考えますと、やっと一つの仕事をやり終えたな、と安堵します。
 旧約聖書には、モーゼが、約束の地イスラエルに辿り着く前に、異国の地で臨終を迎えますが、その直前に、自分が死んだあとの、お骨の処遇について指示をしたという記述がなされています。
 遙か昔、数千年以上前、人類は既に遺言を残していましたし、現代のACPに通ずる取り決めをしていたのですね。
 「逃げきれた夢」では、認知症になったときの物忘れなど症状のこととかはあまり出てきません。それよりも対社会、対家族、対友人の関係性について、男性が陥りがちな孤独やコミュニケーション不足のことがクローズアップされていました。
 これは決して他人ごとではありません。
退職したりして、それまでの人間関係が一気に無くなりますと、特に男性は、「毎日、毎朝規則正しく行くところ」が、無くなりますので、人と会話することが減ってしまいます。
一つ屋根の下で生活している妻や子どもさんがいればまだしも、居なければたちまち独居の高齢者になってしまいます。
 やはり、日常生活をしていく上で、「会話が成立する家族や友人、隣人、知人」の存在は大切です。
 これは、男性だけではなく、女性にも当てはまりそうなのですが、もともと女性のほうが、会社などの勤務しているところの人間関係だけではなく、居住しているところの管理組合や地域の集まりに参加していることが多いのかな、と思います。
 それで、たとえ、会社や事業所などの勤務が解かれても、直ちに孤独になってしまうことは男性に比べて、その割合は少ないのではと推測します。
 映画では、今までの人間関係を見直し、「自分が受け入れられる」ように、態度や物言いの仕方を改めようと懸命に努力し始めるところで、幕が降りました。 そうして光石研さんが歩く背中がクローズアップされて、あとは何だか曖昧な光が漂う画面が続いて、映画自体もフェードアウトしました。
 視聴する私たちに、これからの主人公に、変貌する予感めいたものを感じながら、あるいは、もうどうしようもなくなり、それでもなお生きていく主人公に私たちの思いを投影しながら、さあ、これからどうなっていくのでしょうねと、推理する、憶測する楽しみを残してくれていったような、そんな感想を持ちました。
 さてさて、私たちは、これからの人生を意味のあるものにするために、何から取り組んでいくのがいいのでしょうね。
 久しぶりに、緊迫した一人芝居のような良質な劇を観ることができました。
カメラワークが独特で、サラッとしているのですが、でも粘り着くような映像が、記憶に留まっています。
 再度観るためには、こちら観る側が、体調を整え、深呼吸をして、居住まいを正して、そうして、ある意味緊張して観ることが求められますね。
 良質だけれど、緊張する、そんな映画であり、後世に残るものでしょうね。
 この映画を監督した二ノ宮 隆太郎という脚本家、監督に注目して、これから大いに期待したいですね。

主演の光石研さんは、黒崎の出身で、女優の吉本実憂さんは北九州の出身、さらに松重豊さんも福岡の出身で、西南女学院高校の校舎、北九州フィルムノアールスタッフの実家が門司の海が見える主人公が住む家、と全部北九州尽くしです。