aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

北九州信徒聖書学校教師小早川俊男牧師と旧姓中村仁子の思い出

若戸大橋開通で、渡り初めをする小早川俊男、仁子、晶、理、直

今は無き戸畑バプテスト基督教会牧師 小早川俊男説教集

今日の私のakimac`s100 blogをみていただけたでしょうか?
そこに出てくる、私の雅号でしょうか、散夕亭 夢四郎 なんとなく調子がいいものですから、つけちゃいました。
 ええ、ええ、私のことです。どうしてそんなことをとお思いでしょうね。
それには、私の両親のまあ想い出というのでしょうか、私の幼少時からの強烈な人生航路がそのようにさせている、そう考えています。
 おそらく現代人には理解ができない、そのような激烈な毎日を私と兄弟3人は送ってきました。ただ兄弟の中でも、上2人の舐めた辛酸と下2人のそれとは、全く比べものになりません。あ、そのお話はまたの機会に述べますね。
さて、私の母親 中村 仁子は、熊本尚絅女学校を卒業し、そのまま図書館司書をしていたそうです。そのときに、後年NHKの「隣の芝生は青い」の一つ前の連続テレビ小説の脚本を書くことになる方と親しくなりまして、すんでの所で東京に出奔するところだったそうですね。それを止めたのが、私の父、小早川 俊男だって話は、以前しましたよね。そう、知らない?ですか・・。まあ、そんなことがあって、私が産まれることになったのでしょうがね。
 父は、最初は熊本大学薬学部の新進気鋭の研究者だったそうですが、東京大学から新任の教授が来まして、どうもその方とそりが合わない、それで、え〜いと大学を辞めて、故郷の宮崎に戻りました。
 最初からではないでしょうが、ほどなくして宮崎県立病院の薬局長として、宮崎県全体の薬事行政なんかも差配していたようです。また慣れない飲み事なんかの雑事に追われている、そんなこともあったようです。
 もともと、旧大日本帝国海軍士官だった父親は、それはそれは厳格だった私の祖父母に、それこそ「武士道」を幼少期から徹底的に仕込まれた、「サムライ」、「モノノフ」だったです。
 私の知る限り、あんな「漢」はいないと、息子の私が保障します。
後年牧師になりましたが、その苛烈な生き様は、様々な影響を周りに与えていきます。
 まあ、牧師としてはいわゆる世間一般の牧師のイメージとはほど遠い人で、敵国アメリカ合衆国の宣教師なんかとは全く対極にいる人でした。 そして、戸畑バプテスト教会の前任牧師が青森県に逃げていったその後に、そこの牧師として招聘されたのです。ですが、まあ本当にけしからんことに、そこの信者たちが一斉に反旗を翻したのですね。
 それはそういうことになるのは当たり前で、それまで「天皇陛下」を現人神として敬い、絶対服従を強いられてきた世代の、回転魚雷で死ぬはずだった父親にしてみれば、太平洋戦争に負けて、敗戦の憂き目に遭い、それまでの「天応陛下が神様」だったのを、戦後数年で宗旨替えをし、今度は「イエス・キリスト様」を神様として崇め、そしてその神様の言葉を取り次ぐ「牧師」にせっかくなったのに、その神聖で敬われるはずの牧師をないがしろにしている、戸畑バプテスト基督教会の信者は、自分の信じた基督教の信者とは、到底思えなかったのでしょうよ。
 戦後、あれほど「鬼畜米英」を信奉していたはずの日本国民は、臆面も無くそのアメリカ合衆国の文化になびきましたね。その象徴が、「キリスト教会詣で」としての、教会出席だった、そう考えます。
 ですから、同じ屋根の下にいても、その出自、考え、信奉している基督教そのものが、根底から違っていたのです。
 父親に味方して下さるのは、以前からの教会員だった村上さん、梅原さん一家、それに戸畑高校の高校生、西南女学院高校の生徒さんたち、それに教会から見えていた九州工業大学の学生さん、学校の先生など、本当に限られた人たちだけでした。当時人口が20万人近くいた戸畑ですが、大部分は八幡製鉄所やその下請けの企業に雇われている人、その家族、そして地元の人たち相手に商売をしている、そんな市井の人ばかりでした。
 「文化果つる」所だったと、そう思います。その中で、「武士道的な基督教」を説く父親は、異色すぎる存在だったのですね。ですから、新渡戸稲造」「黒田光吉」「内村鑑三」など無教会主義の人たちの書物が山のようにありました。それから旧制第三高等学校出身のおもに哲学者、教育者、宗教家の方たちと親交がありまして、戸畑の牧師館はそういった方々の溜まり場のようになっていて、談論風発し、子どもの私は「何がそんなに面白いのだろう、それにあの学者さんたちは何故我が家にこうも出入りしているのだろう。」と訝しみました。
 
 父親は毎週の自分の説教をテープに録り、それを教会員が文字に起こし、説教集が編纂されました。その説教集ですが、「講壇」といいます。
 私がその一部を保管しています。説教のテープも10本以上あります。
時々ラジカセで聴きますが、朗々とした語り口で、これは私が大学で講義しているときの口調だな、親爺に似てきてしまったね、とそう思います。
 私の母親は、もともと祖父の仕事、医師を目指したと言っていました。その道を阻んだのが、「女に学問は要らぬ」として「花嫁修業」を強いた私の祖母「中村マサ」さんでした。
 私の叔父さんたちが熊本の白川中学校という県下一の進学校に進むとき、水前寺に一軒家を買い求め、そのときに奔走したのが私の父、小早川俊男だったのですね。母は2人の弟の身の回りを世話していました。中村一男醫院の跡継ぎの養育を任されたのが、私の両親だったのです。それで、その水前寺の家が私の出生地になりました。
 さて、そんな両親ですが、文才はどちらが優れていたかといいますと、学術的な文章は父親がたくさん記述しました。ですが、文章として面白いのは断然母親でした。
 また、脚本家としての才能や、舞台、ステージ監督としての力量は母親だったとは、息子である私がよく知っています。 
 そんな血が私の中にもきっと脈々と流れていたんだと、最近実感しています。
  それで、このブログ、時々は実験的な試みとして、「落語風」脚色を施して、ご披露することもママあるかな、と、そう思っております。
 私は、これからも落語風な書き物なども、物してみたいと、そう思っているわけなのでございます。
 まあ、これも古希を迎えようとしている1人の男性の、生きていく楽しみの一つと、そのようにご理解いただきたいと。
 昨日、北九州市立美術館の Cafe Museの長い廊下にありましたポスターの文言のように、私も「とびたつとき」かなと、そのように思っている今日この頃でございます。
 私の世代の人たちの大部分は、煩わしく、忙しい仕事からはもはや退いています。私のように、現役世代の医師に伍して、いえいえそれ以上の働きを強いられているのは、もう辞めにしましょう。
 もっと大局的なしごと、もしくは自分の身体をもう少し労りながら、長続きできるような仕事を探そうと思い始めています。
 1年ごとの季節労働者のような待遇になっているわたしですが、逆に言えばそれだけ辞めやすいということにもなるわけですね。
 関東の雄、独立行政法人 国保旭中央病院での勤務条件は破格だったのです。それを投げ打って故郷の福岡県、そして医療に恵まれていない過疎地である、この田川に「緩和ケア病棟」を作るという約束は果たしました。
 今後、私がもう少しここにいることができるとしたら、協同して働けるようなヒトを探してくることが必要です。
 そんなことを考えなければいけないほど疲労困憊しています。
「緩和ケア」というと、「何もしないところ」「これくらいの情報量でいいだろう」と医学的な病歴だけをコピペしてきて、患者さんの背景、心情など、何も記載してこない医師たちが多すぎます。
 千葉県旭市にありますかの病院への診療情報提供書とは、質が、悲しくなるほど低いのですね。
 これは、この地に生息する医師たちの考え違いが、その遠因ではないのかな、そう考えています。
 その都度私は指摘しています。その次からは、考えをあらためて、ましな診療情報提供書になりますがね、大抵は。いまのところ、次の生息地は「故郷」の戸畑になりそうです。玄界灘がやはり、私には似合います。それでは。

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