aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

日本一の緩和ケア病棟と私の術衣、それに祖父のこと

田川市立病院緩和ケア病棟の朝

暑くなってきました、蒸し蒸ししてきました。ワイシャツにネクタイはもう、勿論、ポロシャツでも汗だくだくです。もう耐えられません。

ふと緩和ケア病棟の看護師さんたちの服装を見ましたら、彼女たちは、実に涼しそうな出で立ちではありませんか。そうだ、あの術衣のような、何というのかな、あれが欲しい❗

そこで、病院の総務に、◎△◇緩和ケア病棟副看護師長さんから電話を入れていただきました。「小早川先生が、私たちと同じスタッフ着がほしいと言っておられます。そんなのが何かありますか?」と。

 そこで当院の手術室の男子スタッフ用の古着があったので、それを拝借してみました。これは気持ちよい。涼しいのでした。

 もともと手術室で10数年働いていましたので、何だか嬉しい気持ちです。早速新しいものを発注してくださるとのことでした。(*^。^*)(*^。^*)

 

MサイズとLサイズをどちらも試着してみましたが、Lサイズは大きすぎました。なんとMサイズが丁度いいのでした。

九大医学部の学生時代は、体格が立派すぎて、LLサイズでも入らず、XLの上のFMという規格があるのですが、それでやっとこさ身体を押し込んでいました。体重は114KGまでいきましたっけ・・。

 何しろ、お肉中心の食生活で、ラードがタップリ入った焼きそばやら、毎日スポーツドリンクを飲みまくり、牛乳は1日1リットル+アルファですからね。それは太りますよね・・。

 お相撲の九州場所があっていたとき、箱崎の銭湯で、増井山とそのお付きのお相撲さんから、「君、君は立派な体格をしているね。どうだね、相撲部屋にこないかね。」と言われたのを思い出しました。フフフ。

 その当時は九州大学医学部準硬式野球部に入っていて、毎日筋トレしたり、バットの素振りは毎夜欠かしませんでしたからね。

 右手の握力が94kg、左手が90kgありました。今ではどちらも80kgまで落ちています・・。

 体格が良すぎて、ランニングは超苦手でした。

 小学5年生のとき、駆けっこでは学年で1番早く、学校対抗のリレーではアンカーの手前で頑張りましたが、太ってしまって・・。

それが今や数十キロ痩せまして、昨日はMサイズが丁度良かったです。(*^。^*) まあ、5月27日に、戸畑高校の同窓会があります。「古希の会」という名前までついていますが、それに照準を合わせ、3月20日あたりから「痩せよう」と思って、今その最中ですからね。

閑話休題

いろいろなホスピス、緩和ケア病棟で働いてきましたが、今回、田川市立病院での緩和ケア病棟立ち上げのプロジェクトに携わりました。

日本一綺麗で、ラウンジや病室などからの眺めなど、考え抜かれている緩和ケア病棟にすることができました。これもひとえに、福岡市の◎設計の□◇一級建築士さんの類い希なる熱意、田川市の建築関係スタッフの◎△女史、それになんと言っても当院の施設整備担当の◎◎さん、ひいては病院管理者、病院長、看護部長をはじめとした上級管理者の皆さんの、「絶対に、どこにも負けない緩和ケア病棟を造る」という熱意、やる気、頑張り、そして実際に工事を担当していただいた各社の頑張り、目配り、気配りが無ければ、到底成しえなかった事です。そして何より田川に緩和ケア病棟がほしいという田川市民の皆さんの支えが無ければ成しえなかったことです。

 4月1日に開設されてから、毎週の緩和ケア外来への予約を確保しようと、緩和ケア病棟クラークの◎女史宛てに、病棟受付に置いてある最新式のFAXから大量の「診療情報提供書」並びに「緩和ケア病棟入棟依頼書」などの書類が吐き出されてきます。

 

私はランチを忘れてしまうくらい、目が回る、イヤ実際に目が回ります・・、福岡市や北九州市飯塚市田川市の、大学、がんセンター、医療センターなどの基幹病院等からひっきりなしに依頼があっています。

 嬉しい、嬉しすぎる悲鳴。

神様、願わくば、もう一人、私の分身を与えたまえ。アバターを。

 もう研修医でも、短期ローテーターでもいいのです、医師免許を持ち、ホスピス・緩和ケアを学んでみたい、素直な医師を与えたまえ。伏して祈ります。

 私が卒業しました戸畑高校の28会、これは昭和28年4月から翌29年3月までに生まれ、同窓となった諸君の同窓会なのですが、先ほど述べましたように、今度、5月27日に小倉のリーガロイヤルホテルで「古希の会」をします。

 私の同窓からは、「もう現役で働いているのは小早川君だけじゃないのかな?」と。

 いや〜そんなことはないと思いますがね。でもね、皆さんと久しぶりに会って、話してみたいですね。

 いえね、医師という職業は、自分から引退しない限り、一生現役で働けると思ったからこそ、医学部に進学して医師になったわけでして、中学に上がる頃から、なんとなくですが、手に職をつけよう、できれば国家資格を持ち、何かの組織に所属しなくともやっていける仕事につきたいと思うようになりました。

 

祖母、中村マサが建立した、夫、中村一男のお墓

するとすぐ近くにロールモデルがいたのですね。そうなんです、私の祖父、中村一男先生です。

 

彼は昭和の初め、昭和2年に、旧大日本帝国からドイツへの留学を命じられていたのですが、結核に罹患してしまい、その夢は果たせず、故郷の長崎県島原半島に近い天草で中村醫院を開業したのでした。何でも、当時留学を命じられたのは全国で3名で、東京帝国大学京都帝国大学からそれぞれ一人ずつ、それに全国に7つあった「旧医学専門学校」(現在の熊本大学鹿児島大学、金沢大学など)から一人だけ選ばれたのだそうです。これは私の祖母、中村マサさんから私が直接聞いています。

 それを支えたのが、私が「宇宙一頭がいい。」と認定している祖母の中村マサさんでした。彼女は旧長崎高等医専(現在の長崎大学医学部)付属の看護学校助産師学校を超優秀な成績で卒業した切れ者でした。

 その2人が頑張っていたのを、3才前だった私は見ていました。シンメルブッシュのシューシュー言っている祖父の外科診察室、看護婦たちを従えて街に往診に繰り出している格好いい祖父、町民みんなから愛されていたその人柄、私は惚れました。憧れました。そんなお医者さんになりたいと、今でも憧れがあります・・。一男さんの膝の上であぐらをかいている幼き日の私とのツーショットの写真が残されています。お爺ちゃんは満面の笑みでして、愛されていたのだなとしみじみ思います。

 さて、今日は、そんな祖父と祖母へ、3年ぶりにお墓参りができます。嬉しいです。総勢14名くらいいます孫筆頭の私です。心を込めてお参りしてきます。