aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

いよいよ「医療哲学Cafe」が始まります。

写真は、地震で損傷していた熊本城です。復興が進んでいます。
いよいよ「医療哲学Cafe」を開催することになりました。
本当は明日からの予定でしたが、当院の医療機能評価のためのラウンドが重なってしまいました。諸般の事情で(このフレーズが好きですね)30日になりました。皆さまには、テキストとして、「ホスピス財団」から出版されています「Whole Person Care」の「実践編」と「教育編」の2冊のお買い求めをお願いします。
 毎週火曜日、午後6時から7時までの60分を予定しています。内容によっては、90分から100分になることもあると思います。
 
田川市立病院の緩和ケア病棟、多目的室で、当院のスタッフには対面で行いますが、ZOOMでも配信します。
 
IDは 222 928 9412
パスコードは 292563です。
 
「全ては患者のために」を掲げた、国保旭中央病院初代院長の故諸橋芳夫先生の医療哲学に感銘を受けた私です。
先生がお造りになった同院緩和ケア病棟で逝かれたその遺志を大切にしたいと思います。  
 自治医科大学創設の功労者でもあった先生は、地域医療の確立に奔走されました。先生のことを深く知りたい方は、「すべては患者のために」という書籍が、アテネ出版から出されていますのでお読みください。
 「全ては患者のために」から1歩進めて、私は「全ては患者本人とパートナーのために」を標語にしたいと思います。
 そして、この医療哲学に深く思いを馳せることによって、私たち医師・看護師・薬剤師の日々の仕事に厚みが出て、私たち自身の医療の質が向上し、ひいては自分自身のやる気に繫がるものと思います。
 医療は双方向です。私治す人、あなた、治される人という側面もありますが、それだけではなく、お互いが1人の人として、身体と心と魂を持つ存在として認め合うことで、究極的な癒しの業が生まれてもこようというものです。
 何のために私たちは医療者になっているのでしょうか。
それはつまるところ、他の人へのサービス(奉仕)が、日常の仕事の根底になければ、どんなに優れた医療技術を持っていたとしても、そこに心が無ければ、虚しいものです。
 ただの技術者に、私たちは自分の大切な家族を任せたいと思うでしょうか。
医療者の医療技術と、他の人に優しく接する心と、接している目の前の人の、まさにそこに居る人の今の現状を正しく捉え、一瞬一瞬に対応するとき、私たちは信頼を得ることができるのではないのかな、そう思います。
 いわば「一期一会」の精神、「人を大切にし、リスペクトすること」、そして、接している人の、大げさに言えば、「人生を成就できるようにサポートすること」が私たち医療者には求められているのでは、そう考えています。
 勿論、中にはそう思いたくないような人も、中にはいるでしょうよ。でも、そういったとき、困難さを乗り越えていけるかどうか、結局は私たちのプロとしての力量が試されているのでしょうし、レジリエンスの醸成がなされていくのでしょうね。
 今回の新型コロナという、パンデミックは、先のスペイン風邪の終息するまで3年かかったという歴史を塗り替え、まだまだ続いています。
 一見これまでになく困難な時代のように見えていますが、旧約聖書の詩人コヘレトは言います。
 コヘレトの言葉第1章9節と10節、
 「かつてあったことは、これからもあり 
  かつて起こったことは、これからも起こる
  太陽の下、新しいものは何一つない。
  見よ、これこそ新しい、と言ってみても
  それもまた、永遠の昔からあり
  この時代の前にもあった。」
 かなりシニカルな物言いですが、私は彼の言葉が好きですね。
 
この時代の人とは違い、私たち人類は、19世紀の産業革命を経て、新しい技術を開発し、「神の領域」にまで足を踏み入れようとしています。
 そのための努力を惜しみません。
しかし、その結果、人類は新たな困難に直面するようになりました。
 医療でも、技術革新の結果、20世紀に入り、医療技術で治せる疾病が多くなってきました。しかし、「いつも治そうとする」ことは、必ずしもすべての年代の人に求められているかといわれれば、決してそうではありません。
 人の命はやがては消えていくものです。
その儚い命、可能であり適切であれば医療的なコミットを行いますが、もしそうで無ければ、私たちはただの技術者になってしまいます。
 そこには慰めがありません。癒しはありません。
いついかなる時でも、私たちが接する人の癒しを考え、行動することが必要です。私たちにはそのことを行う知恵が備わっている筈ですし、いつからでも「学ぶ」ことはできます。
 人が動物と決定的に違うのは、人は文字を持ち、学ぶことができること、とはある賢者から聴いた言葉です。
 
 コヘレトは有名な言葉を遺しています。
「コヘレトの言葉」第3章1節から8節にこうあります。
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬとき
植えるとき、植えたものを抜く時
殺すとき、癒やす時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
闘いの時、平和の時
 
私はこれに、「教える時、教わる時」を加えてみたいと思います。
人は、誰かに何かを教えるとき、教えているように思いますが、でも逆に教えることが、自分も教わっていると言う側面があります。
 
 今回のこのwhole person careも、私たちが教わりながら、それを誰かに教えていく、いわば双方向性ということがキーになるのでは、そう思います。
  教え、教えられ、そうして医療の質が改善され、その恩恵を患者さんだけではなく、私たち医療者も受けることができますように、そう祈ります。
 
 私もまた、教え教えられる輪の中に加わり、皆さんとともに歩んで参ります。どうぞ宜しくお願いいたします。