日本バプテスト戸畑基督教会の牧師主任式です。1962年4月1日とありますから、丁度61年前です。この日から我が家は疾風怒濤、阿鼻叫喚、失意と憤り、諦めの世界に突入します。
私は、宗教なるものに、全く失望しました。
毎週教会のオルガニストになるべく、ピアノのレッスンを小学5年生から再度先生について習いました。
毎週火曜日だったと記憶しているのですが、大阪音楽短大を卒業されたばかりの岡先生が私にピアノの個人レッスンをしてくださいました。小学5年生から高校2年の9月まで、牧師室のピアノで厳しく教えていただきました。淡い恋心を抱いていました。先生には後に外国航路の船長さんと結婚して、横浜におられると聞きました。また先生の妹さんには、両親と後に私の妻となる女性が、声楽を習っていました。
「晶には全て教え込んだ」そうです。
毎週日曜日は、教会でオルガニストをしなければいけませんから、学校のクラブ活動は御法度でした。外出も厳しく制限され、許されたのは図書館と書店のみでした。
テレビは、 NHKの夜7時のニュース番組と大河ドラマだけ。ラジオも与えて貰えませんでした。それで大学に合格したときに、ソニーから出ていた、LPレコードプレーヤーとAM/FMラジオテューナーを購入して貰え、とても嬉しかったのでした。
まるで清教徒のようだったな、そう思います。
今ならば、大半の教会員が去ったのは、悪いのはもちろん一義的にその人たちの方だと思いますが、その原因の一端は父親にあったのでしょうね、まだ子どもだったので、よくは判りませんがね。
一家の中で、太陽のような存在だったのが母親でした。
後年自分ががんにかかり医療センターの緩和ケア病棟に伏せっていたとき、私は関東のピースハウス病院(ホスピス)で勤務していました、3人しか常勤医がおらず、私が1人抜けると、22ベッドのホスピスが潰れてしまいます。
母親の携帯から、「晶は、5月の連休は帰ってこれるだろうか?」と聞いてきたときには、胸が締め付けられました。涙が出て仕方がありませんでした。すると母親は、「いいよ、晶。お母さんはまだ大丈夫だからね、晶はね、そのホスピスの患者さんのために働きなさいよ。」と言いました。ごめんね、お母さん、お母さん、と泣きました。
そして、本当に急速に衰弱しました。
一家の明るい、太陽のような人でした。明るい、朗らかで、決して人の悪口を言ったりしない人で、みんなから慕われていました。
若い時、熊本の短大で、一番綺麗だったよと、母親の友達が、そう言って教えてくれました。
私も、「僕の母親は綺麗で優しい。」と自慢に思っていました。
その母親が死んでいくのに、とうとう最期には間に合いませんでした。
いまでも後悔しています。
結局、人は生まれてきたからにはいつかは死んでしまいます。私の弟が、私に孫が産まれて、可愛かったときに、「兄ちゃん、可愛いよね、でもねいつかは死ぬんだからね」と諫めてくれました。ちょっとぎょっとはしましたが、一面の真理ではあります。
人は何故産まれてきて、何故死んでいくのか。これは科学では判りません。不思議なことばかりです。
信仰とは、まだ見ぬ事を信じること、とバイブルには記載されていますが、では、どうしてそのような心持ちになれるのか。
イエスは厳しい一面と共に、徹底的に許す、寛容な一面も持ち合わせていました」。私は勿論会ったことがないのですが、当時直接接していた人たちはどのように思っていたのでしょうね。その時代にスマホがあったら良かったのにと思うことは突飛なことでしょうか。
イエスの再臨が記載されていますが、まだ再臨したことは無さそうですから、これから未来にそれが起これば、間違いなく記録されますよね。そんなことを考えていると、何だか楽しくなります。
晶の戯言に最後まで付き合ってくださってありがとうございます。
お互い命が召される、その時まで、有意義だと感じられる人生を歩んでいきたいと思います。