aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

魂の飢え、乾きには、ただそこに居ること、寄り添うことが大事です。

最近、大気がやたら乾燥してきました。昨日、田川市の湿度は15%でした。1階から緩和ケア病棟のある6階に昇るため、業務用の大きなエレベータに乗りました。2階から、田川市立病院の外壁修復工事に携わっているとび職の人たちが乗ってきました。見ると皆さん口々に「喉が渇いて渇いて、溜まらんね〜、タマらんちゃ〜」と北九州弁や筑豊弁が飛び交っていました。私は「空気が乾燥していますもんね。」と応じました。「そうやろ、15%しかないっちゃ。」とこれまた北九弁です。

私は、この写真で見えている、2つの水分を毎日摂っています。左のボトルには朝、自宅で淹れたコーヒーが、右側のボトルには自家製のウーロン茶が入っています。どちらも500ml前後かなと思います。夕方までにはどちらも飲み干していますね。

 ホスピスや緩和ケア病棟で働いていますと、死ぬ間際の人たちと接することになります。私たちから見ますと、もっと喉の渇きを訴えても良さそうなのですが、でもあまり水分をほしがりません。乾きを感知する中枢のセンターが、うまく機能しなくなっている、そんな印象です。

 ですから、水などの水分を嚥下する力が無くなっても、それほど辛さを感じなくてすんでいるのですね。人間の身体は、実によくできていて、環境に上手く適合するようになっています。自然の摂理ですね。

 ところが、ここに登場してくるやっかいな生き物、それが家族です。

これまでの食生活をはじめとした日常生活から、「やがて死ぬこと」に向かって準備していることが理解できず、またはそれを否定して敢えて理解しようとしないのですね。するとどんなことになるかと言いますとね、死に臨んでいる人に、「無理矢理飲ませようとしたり」、「これまで食べれていたのに、ここ(ホスピス・緩和ケア病棟)に来たらたべれなくなてしまった。どうにかしてください❗」と私たち緩和ケアの病棟スタッフに無理難題を押しつけてきます。彼らは全然判っていないのです、人が死ぬことがどんなことなのかを。

 一つは、彼らが育ってきた環境にあるように思えます、テレビを普通に観まくっている生活がそこにはあります。テレビには皮相的で、ありきたりの、深みのない発言ばかりしているタレントたちがおバカなことをしきりに言っていて、享楽的で刹那的、そして消費生活が礼賛され、日常的に「死を考えない生活」、「命がいつまでも続くようにと願う生活」がそこには繰り広げられています。

 他方「人が病気やその他の原因で自然に死んでいくこと」は人に備わっている当たり前の真実であること、が理解できていないと、家族の死にゆく姿に狼狽え、周囲に、特に緩和ケア病棟のスタッフに「食べれるようにしてほしい。食べてなければ点滴をしてほしい。」など言ってきます。私たちは毎回毎回、「今は身体が自然死に向かっているところなんですよ。肝臓のCHE(コリンエステラーゼ)の値が、通常は300から400以上ないと、肝臓に運ばれてきた栄養素の素を蛋白質や炭水化物など、人間の身体にとって無くてはならないものを生化学的な反応でもって作り出すことがもはやできなくなります。あなたの家族のAさんは、ほら70しかないでしょ。それに血液を作り出す力も無くなってきていて、貧血が進んできています。アルブミンコリンエステラーゼ、それにヘモグロビン、リンパ球の%がある一定の基準を下回りますと、余命はおよそ1か月未満とされています。そして、これが肝心なところなのですが、がんの末期は坂道を転げるように病状が早く進みます。無理に嚥下させると、誤嚥したり、窒息させてしまうことにもなりかねません。それから無理に点滴をしても、同じく肝臓での生化学反応は起きないため、身体には取り込まれません、それどころか、心臓が大きく腫れてしまい、肺に、お腹に水が溜まる、いわゆる胸水や腹水を押しつけることになり、せっかく身体が自然の経過で終息を迎えようとしていて、安らかに逝こうとしているのを邪魔してしまいます。

 そういって説明をしても、家族の頭にも心にも響かない、そんなことが日常的に繰り返されます。

 私は、この国に欠けているのは、「死の準備のための教育」だと思います。

まだ元気な内から、そして幼少期から、「生あるものは必ず滅す」という、古来日本人が自然に編み出してきた伝統の考えを、もう一度取り戻してほしいと思います。

 刹那的で、享楽的な娯楽ばかり追い求めるのではなく、少しは哲学しましょう。

一日の内で、眠りにつく前に、できれば静かな時を持ち、月や星を眺め、悠久の自然に抱かれて、自らの存在の小ささや、私たちの限りある命について思いを巡らせ、「生きている間に頭を使い」、感謝して日々を過ごしていきたいと、そのように思います。

 このところ喉の渇きを覚える日々ですが、表層的に、短絡的に人に水分を与えるのではなく、人の魂の飢えを理解し、そっと寄り添う姿勢をみせていただきたいな、そう願っています。