『私の半生』
田川市立病院 副院長 緩和ケア内科
小早川 晶
福岡県田川市在住です。田川市立病院で緩和ケア内科の医師をしています。
当地に来るまでは、千葉県旭市の独立行政法人旭中央病院に勤務していました。
緩和ケアセンター長として、彼の地に「東総緩和ケア研究会」を創設したりしていました。
これまでの、私の半生を振り返って、防備録として残しておこうと思います。
幼少期は熊本市、福岡市、宮崎市、日南市などで過ごしました。小学3年生の時に父親の転勤に伴い、当時の戸畑市に移住しました。中学、高校と地元の公立校に通学し、大学からは福岡市に住みました。以来福岡市が拠点になりました。
医師を目指したのは、どうも中学1年生のときだったようです。高校1年の時のノートには、九州大学の医学部への進学を目指すとハッキリと書いてあります。
九州大学への漠然とした憧れがありましたね。
高校の友人たちの多くは、九州大学の工学部や京都大学の理学部、大阪大学の工学部などへ進学しました。戸畑には新日鉄やマルハ、大洋水産などの水産会社の部課長級の宿舎が多くあり、両親は東京大学やお茶の水女子大学といったアメリカのアイビーリーグにも匹敵するような大学の卒業生が両親である、そういったケースが多かったようです。それで、慶応大学や名古屋大学、東京女子大学などに進学した同級生もいました。
20年くらい前に京都で同窓会がありましたが、皆面影があり、懐かしみましたが、中には「おまえ誰だったっけ?」と訝しむぐらいの変貌を遂げたものもいました。
私は、「小早川、おまえは高校の時と全然変わってないな〜」と言われました。まあ、進歩がないというべきかもしれませんね。
緩和休題・・。
祖父は、旧熊本医専出身の外科医でした。祖母や叔父から聞いたのですが、昭和の初めの頃、日本帝國政府からドイツ帝国に留学を命じられたそうです。祖父は全国の医専から只一人選ばれ、他には東京帝国大学医学部と京都帝国大学医学部から一人ずつ選ばれたそうです。
しかし、船に乗船する前の検査で肺結核が見つかり、留学することが叶わなかったそうです。その後、天草の離島で診療所を開き、そこで一生を終えました。その子ども、次男が私の母親の弟ですが、熊本大学医学を卒業して、跡取りになりました。今でも天草で診療所を経営しています。10年くらい前まで天草の医師会長をしていました。
従兄弟、それに従姉妹にも熊本大学医学部出身の医師が数名います。弟は二人医師をしています。一人は東京大学医学部を卒業して循環器内科医になりました。もう一人の弟は山口大学医学部を卒業して総合診療医となり、宇部市で開業しています。
私は、大学を卒業して、最初は小児科医になりました。その時の教授が合屋先生でした。
後年、先生が癌にかかられ、九州大学病院に入院されたのですが、痛みが緩和されず、そうしたときに私の著書である「ベッドサイドの緩和ケア塾」をお読みになって、「痛みを取る方法を小早川が書いている通りにしてほしい。」と仰っていたと、福岡の郊外で外科クリニックを開業されているご子息から、お通夜の晩に伺いました。弟子冥利に尽きます。
医学部では、授業内容が正直好きになれませんでした。座学は退屈でした。
当時の「九大医報」の部室に籠もって、雑誌づくりを専らしていましたね。
編集長として4,5冊の出版に関わりました。
また、教養部時代には、仲間数名と準硬式野球部に在籍していましたが、福岡市中央区の六本松から、東区馬出まで練習のために通うのは負担が大きすぎました。それで医学部に進学してからは自然と足が遠のき、退部してしまいました。
卒業時に偶々小児科医になり、そのあとこれまた偶々麻酔科医になりました。そして
ホスピス医となり、最終的に緩和ケア医となりました。
これまでに小児科、新生児科、麻酔科、救急、集中治療、一般内科、ホスピス、緩和ケアで働いてきました。転勤を17回繰り返してきました。
幼少期からこれまでに住んだところも、福岡市、宮崎市、日南市、戸畑市、現在の吉野ヶ里町、唐津市、大阪市、東京都、千葉県旭市、そして田川市と変遷しています。
医師としての仕事以外に、大学でも教えてきました。佐賀医科大学医学部、福岡大学医学部、産業医科大学医学部では非常勤講師として実際に医学部生の病棟実習を受け持ちました。また福岡歯科大学では大学での講義も受け持っていました。出身校の九州大学の臨床大講堂で、ホスピス・緩和ケアについての講演を行ったこともあります。
現在でも、西南学院大学人間科学部社会福祉学科で、「老年学」「医学一般」についての講義を受け持っています。神学部キリスト教学科での「実践神学」のクラスで、「パストラルケア」を受け持っていたこともあります。
他には、福岡県立大学看護学部大学院コースで「ホスピス看護学」を教えもしました。
これからの緩和ケアにおいては、机上の空論ではなくて、実際のホスピス・緩和ケアの実践に根付いた教育こそが大事だと思います。
緩和ケア病棟で、実際に患者さんご家族を受け持っての指導を受けること、そうした経験が何より必要です。そう言う意味で、当院に緩和ケア病棟が新設されることの意義は大きいです。
これまでに緩和ケア関係の書籍を数冊出版してきています。
「ベッドサイドの実践緩和ケア塾」2003年10月 木星舎
国立国会図書館所蔵 オンライン
福岡市総合図書館所蔵
「早わかり がんの痛みケア・ノート」2007年12月 照林社
国立国会図書館所蔵 オンライン
「新版 早わかり がんの痛みケア・ノート」2010年1月 照林社
国立国会図書館所蔵 オンライン
「緩和ケア・コンサルテーション」2012年5月 南江堂
国立国会図書館所蔵 オンライン
「老いの緩和ケア」2019年5月 木星舎
国立国会図書館所蔵 オンライン
共著ですが、私が音頭を取って出版したのが、「緩和ケアを始めよう:ゆるやかなギアチェンジ」 福岡緩和ケア研究会編 2001年7月 木星舎
この書籍も、国立国会図書館に所蔵されています。
他にホスピス・緩和ケア関連の論文がありますが、ここでは多くを割愛します。
一つだけ挙げておきます。
「緩和ケアに携わる方々への提言〜最近の日本の緩和ケアについて思うこと〜」
がん看護第18巻第4号(2013年5−6月号) 南江堂
理念は、1 自分自身に忠実に生きること、2 人に左右されずによく見て、しっかりと聞いて、ハッキリと言うこと、3 柔らかな応答と忍耐深さで事にあたり、心に知恵を持つこと、4 自らの人生の目標を見失わないこと、5 自由でありたいこと ですね。
好きなこととしては、ピアノを弾くことです。幼少時、河合の音楽教室に行っていました。第1期生でした。その後、小学2年生のときに日南市でピアノの個人レッスンを白方女史にしていただきました。後年勤務した淀川キリスト教病院病院長の白方先生(九州大学の先輩)の実のお姉さんです。小学3年から戸畑市に移住しましたが、5年生からは当時大阪音楽短期大学を卒業されたばかりの岡先生にピアノのレッスンを受けました。これは高校2年生まで続きました。私が尊敬し、理想とした女性だった、淡い感情も抱きました。先生はその後、外国航路の船長さんと結婚され、横浜に住んだと先生の妹さんから聞いています。
妹さんも音楽大学、確か武蔵野音楽大学の声楽科を卒業されて、北九州で教えておられました。私の両親や私の妻となった女性も、その方に声楽を教えていただきました。
そうそう、私の育った戸畑基督教会にはハレルヤ幼稚園が付属していました。40年くらい前でしたか、以前NHK交響楽団で首席バイオリン奏者、いわゆるコンサートマスターをしておられる、通称「まろ」さんこと、篠崎史記さんのお父さん、篠崎永育さんが、ハレルヤ幼稚園で「篠崎メソードによるバイオリン教室」をしておられました。まだ幼児だった「まろ」さんが、泣きながら練習していたのを度々見ております。私は習いませんでしたが、私の父親と三男がバイオリンをかなり習っていました。
また、時々はオカリナを演奏したりもしています。
クラッシックではバッハやショパンが好きです。
Jazzが大好きでして、CDやLPレコードで聴いています。自分でもJazzのピアノ譜を弾くこともあります。
最後になりましたが、何はともあれ、「それがどうしたの?」をモットーに、自由闊達に生きたいなと思います。