aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

医療者の目標、それは人々のwell-beingを願うこと

私たち医師、看護師、薬剤師、いわゆる医療者の目的は、ただ「病気を治す」ことに終始するのでは無くて、患者さんやご家族のwell-beingをサポートすること、それが私たちの職業倫理、職業規範なのだということを、やっと医療界も認めましたね。私が九州大学医学部の学生時代に漠然と考えていたことです。私は生意気な医学生でした。あるとき、脳神経外科の教授が、彼の授業でこんなことを仰いました。「小早川君、いますか?」「君はカルテを日本語で書いているが、実にけしからん。けしからんが実によく判る。判るよ君。これからはカルテは日本語で書くべきですね。そして看護師さんとも情報を共有しなければね。ところで君、君はどうだね、脳神経外科に入局してみないかね。・・」と。
 そうなんです、昔、私が医学部に在籍していた時分、医者は医者たちで、教授を先頭にして「教授回診」し、看護師、おっとその当時は看護婦でしたね、看護婦たちは病棟の看護婦長を先頭にして「婦長回診」をしていました。そして極めつけは医師には医師専用の「カルテ」があり、私たち学生が「ドイチ語」と呼んでいたドイツ語のような文字がつらつらと殴り書きしてあって、とてもまともに読めるものではありませんでしたからね。そこに私が割って入って、わざとのように、いえ本当にわざと、確信をもって実行に移したのですね。情報の共有ができない書類なんて、ただのゴミですし、インクの無駄遣い以外のなにものでもない、そう判断したわけです。
 私はもともと先進的な医学教育をしている医学部に行きたかった、特にアメリカ合衆国やカナダのね。それで私に白羽の矢を立てられたのが自治医科大学だったわけですね。現役のときはその存在を知りませんでした。1浪目、福岡県の一次試験をパスして、宇都宮市自治医科大学の2次試験会場にて、当時の学長の中尾喜久先生の最終面接を受けました。先生の質問の中で、「君の尊敬している人は誰ですか?昔の人、今生きている人の中で。」との問いかけがありました。私は当時戸畑の牧師館の中で純粋培養された、うぶで、大日本帝国元旧海軍特攻隊の生き残りであり、戦後は天皇陛下からイエスキリスト様に宗旨替え、といっても地はなんと言ってもちゃきちゃきの軍人ですから、例えば牧師館で皿洗いなどしているときに、軍歌を歌っていましたからね。そうなんです我が家では洗濯、掃除、庭の木々への水やりは全て父親の仕事でした。開業医の誇り高き長女だった私の母親は、日々の買い物と料理、そしてハレルヤ幼稚園で、副園長として幼児教育に心血を注いでいましたから。おっと、話が脱線しましたが、大丈夫です。本論に戻りますね。私は中尾喜久学長に申し上げました。「それはなんと言っても私の父親です。」とね。試験の成績はとても良かったのでした(これはあとで福岡県の試験担当者から聞きました)が見事に不合格でした。やはり変なやつに見えたのでしょうね。いえね、私がもし試験管だったら、薄気味悪いし、それは落としますよね。九大の試験にも4点ほど足らずめでたく2浪が確定しました。私は猛勉強しました。大好きなピアノにも鍵を掛けて。そうして秋の関西模試では、灘高校の現役の諸君に交じって、全国で11番でした。その後もいろいろありましたが、自治医科大学の1次試験、今年も軽く受かりまして、福岡県からの7人の侍ならぬ7人の合格者で、二次試験に望みました。そして、筆記試験は余裕でパスした、と思いました。ほぼ全科目満点でした。(これもあとで本学に出向きまして事務で確認していますが、その年の全国トップだったとのこと)そして問題の面接に臨みました。中尾喜久学長が、にやりとしてこう言われました。「おう、小早川君だね、今年も同じ質問を君にしますね。尊敬する人物は?」私は「シュバイツアー博士です、何故なら彼は優れた医師であり、地域の恵まれない人たちに愛をもって医療を施したからです・・また彼は優れたパイプオルガン奏者でもあり、私は彼の演奏するレコードを保有しています・・私も彼をお手本にして、地域医療に邁進する医師になります・・傳々」とお答えしました。すると中尾喜久学長は、「よし、私は君の今日の答えを待っていたのだよ。」と仰いました。他の面接官に目配せをし、「小早川君、もうこれでいいよ。私は君が本学に入学してくれることを願っているよ、4月にまたここ宇都宮で会いましょう。」と。
 私は3月15日、九州大学医学部の合格発表を観に、箱崎まで、双眼鏡を持っていきましたね、その前は前の方でもみくちゃになりましたからね。そして当時の箱崎の工学部の建物の玄関の前の数段高くなったところから私の名前を確認しました。そして戸畑の牧師館の玄関を開けていると、食台が置いてある台所の、小さな白黒テレビに私の名前が映されているところが流れていくのも観ました。そして、合格して良かったねと家族から祝福されているところに、福岡県の医療福祉担当者から、「自治医科大学に合格しました。是非入学してください。中尾喜久学長からの言づてです。」と告げられました。その先のことは、またね。

田川市立病院緩和ケア病棟開設のお祝いです。直方の「花よし」のオーナー寄贈。