2007年3月1日、故日野原重明理事長に請われて聖路加国際病院に赴任しました。護国寺のマンションから地下鉄で週に2日通いました。駐車場はまさに護国寺の中に借りることができました。やっとのことでバカ高い賃貸マンションが決まり、さて駐車場は?もう帰りの飛行機の時間が迫ってきます。途方に暮れていたとき、護国寺の門に隣接している大きな交番で、「この近くでどこか月極の駐車場はありませんか?」と聞いてみました。すると、「ああ、それなら、さっきここのお坊さんが、なんでも今日空いたところがあるよって、言っていたよ、そこの社務所で聞いてみたら。」とご親切にも教えてくれました。そこで社務所で、かくかくしかじかでと申し上げますと、ざっと身分を聞かれ、免許証を見て、「判りました。それではさっそく今月からいいですよ。」となりました。
当時病院長だったのが、私が佐賀医科大学付属病院の救急部副部長でマネジメントしていたとき、隣の総合診療部部長だった福井次矢先生で、私が日野原重明先生の理事長室に顔を見せたとき、「あれ、小早川君じゃないの、どうしたの?」と訝しんでいました。私は一般内科に所属と言うことになりましたが、当時の科長とは一度も会うことなく、あまりにも面白くないので、当時緩和ケア科の部長だった林章敏先生に頼んで、緩和ケア病棟の嘱託のようにしていただき、緩和ケア病棟のカンファレンスに出席したりしていました。林さんは、私が1990年7月に、救急部副部長兼小児科医長兼集中治療室管理長として赴任したあと、その翌年4月に、宮崎医科大学を卒業して研修医を始めていたと記憶しています。ホスピス科で働く先生とは、他県から救急車で運ばれてくる末期癌の患者さんとの受け渡しの場面で何度か一緒に働きました。私の無理なお願いを快く許してくれたことを感謝しています。
ちなみにこの病院に勤務する医師は、全員が国立大学医学部の出身で、外科系はほぼ全員東大でした。内科系の大部分は千葉大学の出身者でした。
形成外科だけ東京医科歯科大学で、精神科も全員東大でした。
東京都の離島などから救急ヘリコプターが毎週2,3件は来ていました。
剖検数は当時日本一で、東京大学の病理の教授が部長の下の医長として赴任してきていました。
初代病院長だった諸橋芳夫先生は、元大日本帝国海軍中尉だったと記憶しています。東大の医学部の学生だったときに学徒動員され、中型巡洋艦の艦長として活躍され、機関長も後に国保旭中央病院の創建に携わったそうです。先生は、「大戦では、中国に多大な迷惑をかけた。すまない気持ちで一杯たにです。せめて中国大陸の方たちに医療で支援したいとの気持ちだったそうで、中国に中日友好病院を創り、現在北京とハルビンに大病院として発展しています。私は中華人民共和国遼寧省地方政府のお招きで、ハルビン医科大学第一外科教授が学会長をなさったペインクリニック学会で、「緩和ケア」について講演しました。その病院はとても近代的で、先生の記念館が病院の中に設えてありました。私も先生がお造りになった日本の病院から来たというので歓待されました。中日友好病院からは毎年数名が3ヶ月から6ヶ月、旭中央病院に研修にきています。お互いにとても友好的でした。
今、中日関係が微妙ですが、民間レベルの交流は絶やすべきではないと思います。ですが、もう少しお互いに顔の見える関係を、政府の上級レベルで築いていただきたいですね。
話をもとに戻します。
2,3ヶ月そのようなことで、最終的には、もともと「次期病院長」として招聘されたはずの「ピースハウス病院」事務長さんから、日野原先生に申し入れていただき、めでたくピースハウスに週5日勤務となり、国民健康保健(毎月の保険料が半端なく高かった)から社会保険に戻りました。
しかし、関東はやはり、九州男児である私にはしっくり来なかったですね。今は九州、それも旧炭鉱の街、田川が、しっくりときています。
でも、これもいい経験をさせていただきました。
特に、毎日旧館のチャペルから全館に流れるチャペルアワーのパイプオルガンだったり、緩和ケア認定看護師による「看護師外来」は新鮮でしたし、また聖路加国際病院から戴いた「プロとしてこうあるべき」を箇条書きにしたハンディタイプのマニュアル冊子は、今後九州でも広めていければいいな、そう思います。
この想い出を、単にいい想い出として私の中だけに留めておかず、いわば「生きた有機体」となりまして、全国の志を同じくする仲間に発信していきたいと思っています。
そういう意味で、今度創めることになりました、「医療哲学Cafe」、気合いが入りますね。
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