aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

日野原記念 ピースハウス病院に習う ホスピス・緩和ケア病棟新設への道のり①

「田○市に、田△市立病院に「緩和ケア病棟」を新設するのです、君しかいないと思うのです。この方面で日本のトップの君に今のポジションを投げ打って、どうか田○のために九州に福岡に戻ってきて貰えないでしょうか?思い切って頼みます。どうかお願いです。」と懐かしいその声は告げていました。
私は、2年と数ヶ月前、千葉県の独立行政法人 国保旭中央病院に勤務していました。
千葉県はそのとき、台風の直撃を受け、神奈川県からの送電線を一手に引き受けていた大きな鉄塔が2本、なぎ倒されてしまいました。そこから6日間停電が続きました。
 住んでいたのは病院の敷地内に立つ10階建ての医師マンション、その9階でした。オール電化で、エレベーターも動きません。毎日、9階から外階段を降り、そして9階分を上がるのです。
 トイレも使えませんし、入浴も、シャワーも、料理も、お湯を沸かすことすらできなくなりました。
 これには流石に参りました。
当時一緒に住んでいた私と妻と子どもの3人は、被災者になってしまったのでした。
 3日目、東京都内のホテルに一時避難しました。自家用車で向かったのですが、千葉県から東京都に近くなるにつれて街に灯りが点り、信号が機能しています。そして都心に着きました。
 全く何事も無かったように、普通に人々が生活しています。
千葉県が、災害に弱い県であったというよりないのですが、しかし、同じ事が東京都に起これば、比較にならないくらい数の被災者が溢れかえることでしょう。
 ホテルの1階から、まさにエレベーターに乗り込もうとしたその瞬間に私の携帯電話が着信を告げたのでした。
 一緒にいた子どもからは、「お父さんは運が良いね〜❗」と感嘆符がたくさん付くほど、驚きの声を貰いました。
 あれから既に2年が経過しました。
 関東では当時既に新型コロナ感染症が流行していました。
ここ福岡県でも少し遅れてでしたが、確実に蔓延し、「緩和ケア病棟」に予定されていた病棟は、「感染症病棟」になってしまいました。
何処の病院もそうでしたが、医療はまさに手探り状態が続きました。
最近では感染者数は相変わらずに多いのですが、ワクチン接種者はほぼ重症化することがありませんし、ワクチン接種者がたとえ罹患したとしても、比較的軽症で過ぎます。
 昨年12月初め、感染は落ち着いていました。感染者数が0の県も多く、福岡県も一桁が続きました。
 そこで、やっと遅れに遅れていた緩和ケア病棟新設のためのプロジェクトが再始動しました。
 今後は、◇設計事務所と田△市、そして私たち田○市立病院とよく協議して、田○市の市民の皆さんに喜んでいただける緩和ケア病棟を造り上げたいと思います。市民の血税と、国などからの地方交付税等の大切な税金を使いますので、私たちには市民の皆さんの負託に応える義務があります。
 私はこれまで、二つのホスピス・緩和ケア病棟の新築に携わってきました。建築のプロではありませんが、ことホスピス・緩和ケア病棟を造り上げる事に関しては、日本で私の右に出る医師はいないと、そう自負しています。
 患者さんがやがて消えて行かれようとするときに、その最期を痛みが無いことはもちろん大切ですが、その方の内面をおもんぱかることももちろんとても重要ですが、故日野原重明先生が仰っていた、その方を取り巻く外的環境も負けず劣らずに大事です。私は彼の弟子として、執念を持って、他所から見学者が引きも切らないような、日本のホスピス・緩和ケアの建築として、レジェンドになり得るような緩和ケア病棟を造りたいのです。通り一遍の、グローバルデザイン風の、どこにでもあるような病棟にだけはしたくないのです。
 そして、受益者である患者さん、ご家族、ご友人の方々に気に入って貰えるような、しっかりとした精神が細部に宿る、そのような病棟を造り、そこに集うスタッフやボランティアもまた触発されるような、そのような、ある意味ランドマークになり得る、後世の人口に膾炙たり得る、そのようなものを造れるはずです。執念を持てばの話ですが・・。人生の最後を託す、そのようなときに、おしきせの環境の中であの世に召される、そんなことになってはいけないのです。
 そんなことになるぐらいなら、病院病院した所では無く、どんな自宅でも、自宅が良いに決まっているではありませんか。
 自宅では残念ながら、そこで息を引き取ることができない身体的、心理的、精神的、そして社会経済的な障壁があるから、止むを得ず、緩和ケア病棟に入らざるを得ない人たちに、お仕着せの環境を与えて、それで由とは、絶対にならないのです。
 折角緩和ケア病棟建築請負人たる私が、わざわざ、千葉県は旭市から1200kmも移動して、全てをなげうってこの地に赴任してきているわけですから、私の仕事をやり遂げさせていただきたいと、そのように思うわけです。給料は下りました。1学年30名の研修医、2学年の初期研修医に、東大と自治医大のたすき掛けの研修医たち、つごう70名の研修医たちに、「小早川方式緩和ケアの極意」を伝授し、20ベッドの緩和ケア病棟(毎日ほぼ満床)のマネジメント、720床の一般病棟での緩和ケアチームを率いての回診、額面は300ベッド、しかし内実は40床で、ほとんどの人は地域の一般社会へ帰っている精神科病棟在住の人たちへの緩和ケアの提供、緩和ケア内科外来での新患外来、再来外来での診療、緩和ケアチーム外来の統率と日々の回診、病院の持つ二つの老健施設への緩和ケアの提供、東総緩和ケア研究会の代表世話人としての活動、日本ホスピス緩和ケア協会の関東支部役員、それに地元の某一般病院での当直を1か月にI度引き受け、そこの施設が持つ2つの特別養護老人ホームでの診療並びに在宅、往診診療、在宅での看取りの実践、学研などの社員への教育、東邦大学などのPEACEプロジェクトへの参加、旭中央病院での年間5回ないし6回のPEACE主催など、枚挙にいとまが無いほど、まさに八面六臂でしごとをしていました。その全てをなげうってここ田○に請われて着任しているのです。
 個人的には、ここ田○市はとても気に入っています。食べ物も美味しいですし、近隣の方々ともすぐに打ち解けることができました。山々も見えて、山が無かった千葉県とは雲泥の差です。
 しかし、私の本懐は、「ホスピス・緩和ケアの伝道師」です。例え「ホスピス・緩和ケア」を擁護する医療者や行政の関係者、市民の方々が少なくても、この細道を拡げていくことが、
私に天から課せられた新たな使命であるとそう信じています。誤解や偏見があるのが当たり前です。
 病院の事務員の某は、私にこのように宣いました。「先生、緩和ケア病棟に何故文学や音楽が必要なのでしょうか?!」と。これは、私が自分の年間の研究費(病院から支給されています)で、緩和ケア病棟に備えようと、自分の研究費で購入しようとした楽譜や小説、文芸書などの目録を携えて、外来をしているところへ現れての言葉です。私は絶句しましたよ。
 緩和ケア病棟にこそ、芸術は必要ですよ。そのことが事務員の頭ではどうしても理解ができないのでしたね。残念ですが、そこから意識改革をしないと、本物の緩和ケア病棟には決してなりません。
 日々新たに造りかえられなければなりません。毎日がstruggle、闘いなのです。緩和ケアは決して優しいだけのものではありません。時には峻烈なことが待ち構えています。
 そのことも、故日野原重明先生が身をもって私たちにお示しになられました。
もって瞑すべしです。
 さて、紙面が尽きようとしています。本日はこのあたりで筆を置きます。
それでは。

ありし日の日野原重明先生を囲む