aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

吉野ヶ里町の古民家と卑弥呼伝説や太古の渡来人のこと

昨日は旧三田川町、現在の吉野ヶ里町に義理の母のお墓掃除に行って参りました。Wifeの妹夫妻と私たち夫妻と、4人で、心を込めて、綺麗にしました。苔のむすそのお墓が、ピカピカになりました。
 近所に住む方がペットボトルのお茶をお供えしていました。また、もともと飾ってある造花に加えて、今日は生花も買ってきていたので、それを墓前に捧げました。
 お義母さんも喜んでくれたと思います。
 お昼は、以前住んでいた古民家で、今はレストランになっている家で、いただきました。近所の悪ガキだった子が京都吉兆で修業して、戻ってきて、地元で有名な日本料理のお店「はせ川」を出しています。予約が何ヶ月も先まで埋まっている、そんな超人気のレストランです。私たちは3月に予約していました。
 

佐賀県吉野ヶ里町の古民家レストラン「はせ川」

 

「ここが以前仏間だった所かな。」「ここは勉強部屋だったわね。」「ここは土間だったところね」と懐かしむことができました。庭の梅の木などもそれぞれ大きく育ち、立派になっていました。
  吉野ヶ里公園として綺麗に整備されているところから、そんなに離れていないところですので、私は「皆さんは、渡来人、弥生人の子孫なんでしょうね。どことなくスキッとした顔立ちだし、スタイルもいいですもんね。そこに行くと天草の叔父貴も保障しているように、私たち中村家のほうは、縄文人って感じかな。」「それにしても、卑弥呼のいた時代、稲作が行われ、高度な自治政府があり、大陸にもその名を馳せていたのは、ここ佐賀県吉野ヶ里や、福岡県の志摩半島から続く平野部で、おそらくはそこに渡来していて大陸や韓半島からの、いまでいうところのインバウンドの方たちがたくさんきていたのかもしれないですよね。その頃関東には何もなかったし、畿内には豪族がいたのでしょうが、志賀島から出土した「漢委奴国王」と記された「金印」は出ていないですしね。そう考えると、卑弥呼は、ますますこの辺りにいたのではないのかな・・」など自説を開陳したことでした。
 それにしても、あの古民家が、ここまでお洒落な日本料理店になるとはね。驚きです。
 その後、Wife夫妻の住む神崎のお家に移動しましたが、そこも室町時代以前から続く農家の古民家で、都会育ちの私には、垂涎のお宝のようなお家です。義理の弟とはJazzという共通の趣味があり、毎回行く度に、ちょっと他所には無いような、あっと驚くアルバムのCD-Rを「お兄さん、これ、いいですよ。良かったら聴いてみて」といって渡してくれます。それで刺激されて、夕方からは背振山を超えて那珂川市に入り、そこから南区、中央区天神にまで足を伸ばし、パルコ5階の「タワーレコード」に行きました。
 馴染みのレコードコーナーで、1枚購入しましたが、そこには数名の韓国の男女がいまして、彼らも、LPレコードを購入しようと真剣でした。二千数百年以前の昔、彼ら韓半島のご先祖様たちも、福岡や佐賀までやってきて、そこに住んでいた縄文人弥生人たちとミックスして、私たちのご先祖様たちのハイブリッドたちもこの世に出てきていたのでしょうね。そう考えますと、歴史のロマンを感じます。
 夕食は、ソラリアプラザ6階のレストラン街にこの頃オープンしたばかりの「小籠包」のお店で。台湾混ぜご飯と小籠包が本格的で、ご馳走でした。ここにも韓半島からのカップルや家族がたくさんいました。
 「オッパー〜。オッパー〜「と叫んでいる可愛らしいお嬢ちゃんもいて、お兄さん〜お兄さん〜、どこに行ったの〜と言っているなと、理解しました。女性がお兄さんと言うときは「オッパー」でいいのですがね、「男性にはまた違う言葉が用意されているので、よくわかったわね。それに発音がいいわよ。」と、韓国政府が認定する「韓国語能力試験」の中級合格者である、Wifeから褒めていただきました。
 やはり、お隣同士ですもんね。仲良くしましょう。
 佐賀平野に連綿として続いている豊かな暮らしと、福岡市天神のインバウンドで賑わう一帯の活気に触れる一日でした。