aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

自由に考えるということ

春日市民図書館の開架図書

人の一生は、本人が満足したものとなるには、短すぎます、かといって、長く生きていればいいかというと、それもちょっと違うなと最近思っています。

 要は、この世におけるポジションが大事なのではなく、どれだけ満ち足りた思いを感じることができるか。

 旧約聖書のコヘレトが言うように、「すべては空しい」のですが、その中にあって、真に信頼できる、そのような事象に出会えれば、本望なのじゃないのかな。

 信仰者であれば、その対象は神様になるのでしょうが、たとえ何も信じるものが無くっても、それはそれ、自分の一生のうちで、心が震えるほどの体験を一つでもすることができれば、それがその人にとっては何よりも大切なものになるのではないのかな。

こんなことを考えるようになったのも、やっぱり、我が父、峻烈だった父の影響だと、最近つくづくそう思います。

 若い時はなかなか理解ができませんでした。その思想に追いつかなかったです。

 でもこの年になってみますと。なるほど、そうだねお父さんと合点することが多くなりましたね。

 ルーティンの仕事のことではなく、生涯をかけて、自分の為に成し遂げなければならない、もう一つの仕事のことです。 それは、私にとっては「自由に思考すること」「規制されないことをファッションにしたい」、そういったことですね。言ってみれば、思想界のピーター・バラカンになることです。

 誰にも邪魔されず、思考することは自由です。その自由さを下敷きにして、今宵も思いっきり哲学してみましょう。

現世や後世で、私がどんな評価を受けるかには、全く興味がありません。

 そんなことよりも、自分の気持ちに正直に生きていたいし、著作でならば、評価されてもいいかな、そのように思います。

最近、日本では生きにくくなったな〜って感じています。いえね、私が高校を卒業した和暦で昭和47年、西暦で1973年当時からこれまでずっと抱いている、日本の社会への違和感です。何かしらみんなと同じようにしなければいけないと思わせる、同調圧力ですね。あれがね、私は苦手です。
 オーストラリア、メルボルンで感じた自由でフランクな気風、イングランドの田園地帯で感じた、ある意味何歳からでも何かをはじめることが当たり前だとする社会、自由な発想と、自在なアレンジ。
 もうそろそろ、この世にあるうちに、何か自分らしいことにチャレンジしたいですね。
それが何なのか。仕事が医療者だって、違うことをしてもいいじゃんって発想が、そもそも「異端児」たる由縁なのでしょうね、きっと。もっと自由な発想を。
 ビートルズユーミンもある意味、その時代の異端児だったのですが、彼らは「そうしたいからそうしている」だったのじゃないのかな。
 後世の人たちが、勝手に理屈をつけているだけで、本人たちは「やりたい音楽をやっている、ただ、それだけ。」だったのではないのかしらね。
  現在日本にあっては、「やりたいことことやる」ためには、社会の中でそれなりのポジションが必要だと思いがち。団塊の世代が、現役のときにはできなかった何かをしに、社会に溢れています。そのエネルギーは凄まじいのですが、誰かの為にだけではなくて、そろそろ自分自身のために時間を使ってもいいのではと、そう考えます。あまり自己規制せずに、時には前に進むことも、殻を破っていくためには必要なこと。そして、世人に憚ること無く、自分の主義主張をなさる、それでいいのではありますまいか。あのターシャ・テューダーさんも、「年を取れば、思った通りに生きればいいのよ」と仰っていますものね。
 ピーター・ヴァラカンさんだって、有名な会社から追われても、自分の信念は貫き通すし、結局はそれが今では開花してますものね。余人は知らず、私はそこを高く評価します。 
そんなことを考えるときに、私が行っているのが、各地のハイブリッドな図書館です。最近の図書館は昔と違い、文献検索のプロフェッショナルがいらっしゃって、そこになければ、他の図書館の蔵書なども検索してくださいます。私に取りまして、思索の糧となるような著作や文献にあたるときにとても重宝します。またいろいろな図書館の建物や蔵書の展示の仕方なども観る楽しさがありますね。飽きないです。今回のブログにつける写真は、そうした図書館の一つで、「春日市民図書館」です。ここは福岡圏にお住まいの方であれば、他の市や町に居住していても本などを貸し出しできる、ある意味太っ腹な図書館ですね。とても気に入りました。そして、静かに読書するのに適したスペースがそこかしこに設えてあり、思索するにはピッタリですね。そうですね、思索するにはテレビ、ラジオなどは消して、本の文面に没入し、行間をも読み解きながら、読み進め、そしてただ読んでいるだけではなく、そこに自らの思考を反映させ、沈殿させる、そういった豊かな時間が必要になります。PCばかり、スマホばかり視るのではなく、日常的に「繫がらない生活」を取り戻すことが、喫緊の課題です。いかにしてメディアから遠くに離れていることができるのか、それが真に有用な思索に耽ることができるか否かの分岐点だと思っています。こんどまた山に行きますが、できるだけ文明の利器からは離れ、山の息吹に全身を浸らせ、野生の気を取り戻そうと思います。