学生会館の2階にありました、音程があちこち狂っていた、調律されていないグランドピアノでベートーベンやショパンなどを弾いていましたが、そのときに手鍵盤だけを使って弾ける楽譜なので、弾いていました。後年Wifeになる女性に会ったとき、生物学教室の上がり口、そこの階段の上に敷き、その上に座ってもらいました。やってきた教授から冷やかされ、何か言い訳していましたが、そんな青春時代の記憶が蘇ります。
当時は東淡路にありました淀川キリスト教病院の救急部で当直した翌朝は、新館の最上階にありましたレストランで、コンチネンタル形式のモーニングを、大阪の街並みを眺めながらいただくのがささやかな楽しみでした。
そして、毎日のように、新館で人工呼吸器の装着が必要な患者さんを、地下の広い通路を通って、旧館の2階にありました、私が管轄していた集中治療室に移送し、筋弛緩薬や鎮静薬を用いながら挿管して、当時最先端のスウェーデン製などの人工呼吸器に繋ぎ、24時間管理していました。
しかし、私が赴任してすぐに、そこの師長さんや看護師スタッフがごそっと10数人、関東の病院に移りました。
かなり前から、その看護師さんたちは反旗を翻していて、そんなこととは知らされずに来てしまった私とあとを託されてしまったスタッフは、とても困ったのでした。
当時の師長さんは、集中治療のスペシャリスト、当時かなり有名な方で、東京の◎病院という、これまた超有名な病院に移りました。「ごめんね先生、でも行くわね。」と部下を連れて、あっさり行ってしまいました。この曲集を見るにつけ、そんな記憶も蘇ります。 私はこの病院にずっといるつもりで、九州を後にしたのでしたが、戻ることになりました。当時の白方先生は九州大学医学部の大先輩であり、元神戸大学の助教授だった方で、ひよっこだった私を鍛えてくださいました。
九州に戻る前に、幹部スタッフと私の送別会を吉兆でしてくださいました。「大学で学位を取ったら、また戻ってきてくださいね。」と温かく送り出してくださいました。
その後、学位を取る寸前のところで、「学位は、私には必要ない。もともと自治医科大学に合格し、そこに行こうとしていた私なんだし、天草で開業した祖父に、そしてそのあとを継いだ叔父のような市井の医師が似合っている。一臨床医として、思うようにやっていきたい。」と、当時異端だったホスピスの世界に身を投じたのでした。
独立行政法人 国保旭中央病院で、1学年30名、2学年で70名の研修医を指導しましたが、その際に全国から公募、試験を経て採用された、超優秀な研修医たちに、東京大学からのたすき掛けの研修医たち、それに自治医科大学の卒業生たちが加わっていました。
ある学年の研修医は全国で10番以内に3名入っていましたが、そのトップは自治医科大学の卒業生だったA君でした。彼は緩和ケアに興味を示し、私の元で3ヶ月間働いてくれました。素晴らしかったですね。
研修医たちの卒業式で、彼が述べたスピーチがまた素晴らしかったです。彼はこう言いました、「皆さんと一緒に研修医生活を送れましたことは私の一生の宝です。皆さんはこれから大学や他所の病院などにそれぞれ進んでいきます。私はここに残り、千葉県の地域医療のために頑張ります。医学博士を取ることは私の目標ではありません。皆さんはおそらくその道を目ざしていくことになるのでしょう。私とは進む道が違ってきますが、患者さんやご家族のために私たちが存在しているのだということを忘れないでやっていただきたいな、そう思います。私たちの医師としての原点は、ここ、旭中央病院です。10年後、20年後、そして30年後にここで同窓会をしましょう。皆さんが戻ってくるのを楽しみにしています。」と、総代、そして全国トップの成績だったことを祝される会で挨拶しました。
感動のスピーチでした。
A君のような医師が、私の前に現れて、一緒に仕事ができればいいなと願う今日この頃です。()