aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

緩和ケア病棟のラウンジに迷い込んだ雀さん、大救出作戦

田川市立病院緩和ケア病棟のラウンジ この窓のブラインドに雀さんが・・
田んぼの苗植え、この辺りはほぼ終わっています。水が張られた田んぼの方から、蛙たちの合唱が聞こえてきます。 今朝は雀たちがチュンチュン囀り始めました。そうそう、昨日の夕方、一匹の雀が緩和ケア病棟のロビーに迷い込んできました。なかなか外に出ることができず、あちこち飛び回っていたのですが、そのうち疲れたのか、外がよく見えている、一面の大きなガラス窓、そこのブラインドの上縁にちょこんと鎮座しました。するとどうでしょう、仲間の雀たちが、ガラスの窓越しに何度も何度もやってきては、「なにやっているの?早く出てお出でよ。」と言っているかのように、心配そうにこちらを観ています。そして外を、「ほらこんなふうに飛ぶのよ!」とでも言っているかのような仕草で、窓すれすれのところえを飛行しては、出てくるのをまっているではありませんか。
  私たちだけでは無理と判断しまして、病院の管財課に連絡しました。そしたら、お二人来られまして、それぞれ手には鳥の捕獲用と覚しき網を持ってきています。それで捕獲しようとしたのですが、すんでのところで逃げられ、今度はナース・ステーションの窓とブラインドの隙間に逃げ込むました。しめた、その窓は火災などのときに煙を外に出すため、外に向かって開くのですね。そこで、取っ手をグルグルまわして・・、あれ、動かないぞ、これってほとんど動かしていない、それで極端に動きが悪い、そんななかでも、雀は逃げようと必死です。こちら人間側も、網など持って、ブラインドと窓の間の雀さんを逃がさないように必死です〜。すったもんだの挙げ句、ようやく窓が少しだけ外に開きました。するっと外に向かって羽ばたいていきました。
 緩和ケア病棟のスタッフ、管財課のスタッフ、それにたまたま来ておられた看護部長さんも加わり、雀さん大救出作戦は終了しました。みんなのお顔に、大きな仕事を一緒になってやり終えた、一種清々しい達成感が漲っていましたね。皆さんボランティアとなって、いい汗をかきました。さて、今日はどんなドラマが繰り広げられるのでしょおうね。

Thank you Message


うちの緩和ケア病棟は、病院の最上階にあります。

エレベーターを上がってすぐのホールに、こんな大きな紙が貼ってあります。

その名も「Thank you Message」

 これは患者さんやご家族から、スタッフに向けた「ありがとう」のメッセージですね。

いわばフェイスブックなんかの「いいね」みたいなことでしょうか、ね。

 これを見て、スタッフがやる気になるといいますか、そんなものなのかな。

 勿論、「こうしてほしかった。」とか「ここをこうしたらもっと良くなるんでは」などの声もあると思うので、そういった記事も載せていくんでしょうね、きっと。

つい、ホスピスや緩和ケア病棟というと、デスカンファレンスなどで、なんとなく「重たい感じ」になることが、これまでに私が経験してきた施設では多かった印象があります。

 ですから、このメッセージを見たときに、「あ、これは、いいな。何だかこれまでとは違う、明るい緩和ケア病棟になりそうだぞ。うちの看護師さんって、偉い。」ってそう思いました。

 ありがとうと言われると、嬉しくなりますもんね。

でもね、まだまだだぞ〜って、少し意地悪いことも考えてしまいます。

バラ色の事ばかりでは無く、止めてくれ〜って叫びたくなるようなことが、緩和ケアでもといいますか、ホスピス・緩和ケアだからこそ、あるのじゃないのかな。

 よくあるのが、医師から、「◎×に行って、栄養をつけて、体力が戻ったら、また化学療法ができますよ。」とか、「今は無理だけど、体力がついたら放射線治療ができますよ。」とかお為ごかしのようなことを言われて、その気になった患者さんとご家族が緩和ケア外来に現れたときとか、ですね。

 もうどうしようもない、癌末期なのは明らかで、「どこをどうやったら栄養をつけられるんじゃい❗え〜、いい加減なことを言うんじゃないよ、ええ❗」と叫びますね、私は。

 まして、そんな紹介のされ方をしているのに、平気で緩和ケア外来に繋いできてしまうスタッフの無神経さにも腹が立ちますね。

 私の広島の孫は、コロナ禍で2才の頃、「無理無理、って言ってんだよね。友達が、私に会おうって言ってくるんだよね、無理って言ってんだよね。」と断言している動画があります。

 あれを見ると、遺伝って恐ろしいな、って思いますもんね。

私も、声を大にして叫びたい、「そんな夢のようなことを求めて、緩和ケアの外来に来ても、無理❗です。」

 そして、そんな紹介の仕方をしてくる無神経な医師たちに、「ちゃんと本当のことを言いなさいよ。ウソをつくんじゃないよ。本当のことの伝え方、ちゃんと勉強しなさいよね。」と青筋を立てて怒りたい、そんな今日この頃です。

 まあ、そんな中、うちの看護師さんたちの、突き抜けたような明るさは、いったい全体何なんでしょうね。

 炭鉱の閉山が相次ぎ、労働争議が頻発していた頃、落盤事故なんかも頻発していましたから、今日生きていればまるもうけ、そして、何事も素早く、明るくやってしまう気性というものが、ここには育まれているような気がしています。

 まあ、私のせっかちな性格が、合っている風土かなって思いますものね。

さて、明日に向かって「出発進行❗」って、これ、カリフォルニアに旅行した私の長男の孫娘が3才のころに、アメ車に手こずり、もたもたとしていた長男の後輩の医師に発した言葉です。

 小早川家の若い女性たち、みいんな、女傑ぞろいときたもんです。

まあ、これも遺伝でしょうね。

 私の父方3人の伯母様たちときたら、とんでもなく気が強いなんてものじゃない、腰を向かすくらいの勇ましい方たちでしたからね。

 まあ、わたしのたまの癇癪なんてものではない、筋の通りまくった怖いかたたちでした。

そこに行くと、私の母親は、言ってみれば「マリア様」か「菩薩様」かというくらい優しい女性でした。

 今度の金曜日、6月9日が、キリスト教式に言いますと、母親の記念日なんですね。

この年になっても、甘えたい気持ちが湧きますね。母親っていいものです。

 本当にアガペーの愛によって、我が子たちを愛していたんだなって、初めてわかってきました。

 今太宰府に、私たちのお墓を建てています。その中に安置し、「待っててくださいね、程なくして私も参りますから。」という気持ちになれます。すると不思議と穏やかになれますね。

 これからもいろいろありそうですが、終着点が判っていますからね、安心です。

 

医療哲学Cafeが開店しました。

大分市にありますJRホテルブラッサムのロビーです。「七つ星・・」や「或る列車」をイメージした感じ。
皆さん、こんばんは。
田川は今日も暑かったのですが、いかがお過ごしでしょうか。
 さて、先週、5月30日、火曜日から『医療哲学Cafe』をオープンしまし
た。これは、医療従事者が自らの職業人としての心構えをレベルアップすること、そして、地域の市民の方々にその恩恵が及ぶことになり、そして医療従事者の方々が、地域にあって、いきいきと仕事できて、自らも医療に従事してやり甲斐、生きがいを感じることができますようにとの願いを込めて、行っていきます。
 緩和ケア病棟があります、田川市立病院6階の私の部屋から、ネットで配信しました。
 しかしながら、ネット環境は、病院全部、スタッフ、患者さんご家族が無料で使えるWifiで繋げたのですが、アンテナが1本しか立たず、それで私の個人的なGalaxy 5G mobile Wifiを使いました。
 私の居室が、もともとは事務室として使われていたためか、壁に頑丈な鉄板でも入っているらしく、ドアを開ければそれなりに電波が飛んでくるのですが、閉めればPHSも通じない、そんな閉ざされた部屋です。
  ですので、明日からは原則毎週火曜日に、緩和ケア病棟の多目的室で、文字通り Cafeのように設えて、それでやってみようと思います。
 その後、私の居室に物理的なWifiを設置していただきました。その名も、KOBAYAKAWA-wifiです。これで、wifiに繫がるようになりました。現代の生活で、大事なのは、携帯の電波が届くことと、wifiに繋げられることだそうですので、これで、何とかなりますね。
 それから、参加した後は、音声をミュートにしてください。
また、時間が限られていますので、チャットでの質問等には対処ができませんので、悪しからずご了承下さい。
 いつか、本物のCafeで「医療哲学」できるといいですね。
 以上です。
それでは、皆さまのご来店を心よりお待ちししています。
 
 
 
 
 
 

 

北九州信徒聖書学校教師小早川俊男牧師と旧姓中村仁子の思い出

若戸大橋開通で、渡り初めをする小早川俊男、仁子、晶、理、直

今は無き戸畑バプテスト基督教会牧師 小早川俊男説教集

今日の私のakimac`s100 blogをみていただけたでしょうか?
そこに出てくる、私の雅号でしょうか、散夕亭 夢四郎 なんとなく調子がいいものですから、つけちゃいました。
 ええ、ええ、私のことです。どうしてそんなことをとお思いでしょうね。
それには、私の両親のまあ想い出というのでしょうか、私の幼少時からの強烈な人生航路がそのようにさせている、そう考えています。
 おそらく現代人には理解ができない、そのような激烈な毎日を私と兄弟3人は送ってきました。ただ兄弟の中でも、上2人の舐めた辛酸と下2人のそれとは、全く比べものになりません。あ、そのお話はまたの機会に述べますね。
さて、私の母親 中村 仁子は、熊本尚絅女学校を卒業し、そのまま図書館司書をしていたそうです。そのときに、後年NHKの「隣の芝生は青い」の一つ前の連続テレビ小説の脚本を書くことになる方と親しくなりまして、すんでの所で東京に出奔するところだったそうですね。それを止めたのが、私の父、小早川 俊男だって話は、以前しましたよね。そう、知らない?ですか・・。まあ、そんなことがあって、私が産まれることになったのでしょうがね。
 父は、最初は熊本大学薬学部の新進気鋭の研究者だったそうですが、東京大学から新任の教授が来まして、どうもその方とそりが合わない、それで、え〜いと大学を辞めて、故郷の宮崎に戻りました。
 最初からではないでしょうが、ほどなくして宮崎県立病院の薬局長として、宮崎県全体の薬事行政なんかも差配していたようです。また慣れない飲み事なんかの雑事に追われている、そんなこともあったようです。
 もともと、旧大日本帝国海軍士官だった父親は、それはそれは厳格だった私の祖父母に、それこそ「武士道」を幼少期から徹底的に仕込まれた、「サムライ」、「モノノフ」だったです。
 私の知る限り、あんな「漢」はいないと、息子の私が保障します。
後年牧師になりましたが、その苛烈な生き様は、様々な影響を周りに与えていきます。
 まあ、牧師としてはいわゆる世間一般の牧師のイメージとはほど遠い人で、敵国アメリカ合衆国の宣教師なんかとは全く対極にいる人でした。 そして、戸畑バプテスト教会の前任牧師が青森県に逃げていったその後に、そこの牧師として招聘されたのです。ですが、まあ本当にけしからんことに、そこの信者たちが一斉に反旗を翻したのですね。
 それはそういうことになるのは当たり前で、それまで「天皇陛下」を現人神として敬い、絶対服従を強いられてきた世代の、回転魚雷で死ぬはずだった父親にしてみれば、太平洋戦争に負けて、敗戦の憂き目に遭い、それまでの「天応陛下が神様」だったのを、戦後数年で宗旨替えをし、今度は「イエス・キリスト様」を神様として崇め、そしてその神様の言葉を取り次ぐ「牧師」にせっかくなったのに、その神聖で敬われるはずの牧師をないがしろにしている、戸畑バプテスト基督教会の信者は、自分の信じた基督教の信者とは、到底思えなかったのでしょうよ。
 戦後、あれほど「鬼畜米英」を信奉していたはずの日本国民は、臆面も無くそのアメリカ合衆国の文化になびきましたね。その象徴が、「キリスト教会詣で」としての、教会出席だった、そう考えます。
 ですから、同じ屋根の下にいても、その出自、考え、信奉している基督教そのものが、根底から違っていたのです。
 父親に味方して下さるのは、以前からの教会員だった村上さん、梅原さん一家、それに戸畑高校の高校生、西南女学院高校の生徒さんたち、それに教会から見えていた九州工業大学の学生さん、学校の先生など、本当に限られた人たちだけでした。当時人口が20万人近くいた戸畑ですが、大部分は八幡製鉄所やその下請けの企業に雇われている人、その家族、そして地元の人たち相手に商売をしている、そんな市井の人ばかりでした。
 「文化果つる」所だったと、そう思います。その中で、「武士道的な基督教」を説く父親は、異色すぎる存在だったのですね。ですから、新渡戸稲造」「黒田光吉」「内村鑑三」など無教会主義の人たちの書物が山のようにありました。それから旧制第三高等学校出身のおもに哲学者、教育者、宗教家の方たちと親交がありまして、戸畑の牧師館はそういった方々の溜まり場のようになっていて、談論風発し、子どもの私は「何がそんなに面白いのだろう、それにあの学者さんたちは何故我が家にこうも出入りしているのだろう。」と訝しみました。
 
 父親は毎週の自分の説教をテープに録り、それを教会員が文字に起こし、説教集が編纂されました。その説教集ですが、「講壇」といいます。
 私がその一部を保管しています。説教のテープも10本以上あります。
時々ラジカセで聴きますが、朗々とした語り口で、これは私が大学で講義しているときの口調だな、親爺に似てきてしまったね、とそう思います。
 私の母親は、もともと祖父の仕事、医師を目指したと言っていました。その道を阻んだのが、「女に学問は要らぬ」として「花嫁修業」を強いた私の祖母「中村マサ」さんでした。
 私の叔父さんたちが熊本の白川中学校という県下一の進学校に進むとき、水前寺に一軒家を買い求め、そのときに奔走したのが私の父、小早川俊男だったのですね。母は2人の弟の身の回りを世話していました。中村一男醫院の跡継ぎの養育を任されたのが、私の両親だったのです。それで、その水前寺の家が私の出生地になりました。
 さて、そんな両親ですが、文才はどちらが優れていたかといいますと、学術的な文章は父親がたくさん記述しました。ですが、文章として面白いのは断然母親でした。
 また、脚本家としての才能や、舞台、ステージ監督としての力量は母親だったとは、息子である私がよく知っています。 
 そんな血が私の中にもきっと脈々と流れていたんだと、最近実感しています。
  それで、このブログ、時々は実験的な試みとして、「落語風」脚色を施して、ご披露することもママあるかな、と、そう思っております。
 私は、これからも落語風な書き物なども、物してみたいと、そう思っているわけなのでございます。
 まあ、これも古希を迎えようとしている1人の男性の、生きていく楽しみの一つと、そのようにご理解いただきたいと。
 昨日、北九州市立美術館の Cafe Museの長い廊下にありましたポスターの文言のように、私も「とびたつとき」かなと、そのように思っている今日この頃でございます。
 私の世代の人たちの大部分は、煩わしく、忙しい仕事からはもはや退いています。私のように、現役世代の医師に伍して、いえいえそれ以上の働きを強いられているのは、もう辞めにしましょう。
 もっと大局的なしごと、もしくは自分の身体をもう少し労りながら、長続きできるような仕事を探そうと思い始めています。
 1年ごとの季節労働者のような待遇になっているわたしですが、逆に言えばそれだけ辞めやすいということにもなるわけですね。
 関東の雄、独立行政法人 国保旭中央病院での勤務条件は破格だったのです。それを投げ打って故郷の福岡県、そして医療に恵まれていない過疎地である、この田川に「緩和ケア病棟」を作るという約束は果たしました。
 今後、私がもう少しここにいることができるとしたら、協同して働けるようなヒトを探してくることが必要です。
 そんなことを考えなければいけないほど疲労困憊しています。
「緩和ケア」というと、「何もしないところ」「これくらいの情報量でいいだろう」と医学的な病歴だけをコピペしてきて、患者さんの背景、心情など、何も記載してこない医師たちが多すぎます。
 千葉県旭市にありますかの病院への診療情報提供書とは、質が、悲しくなるほど低いのですね。
 これは、この地に生息する医師たちの考え違いが、その遠因ではないのかな、そう考えています。
 その都度私は指摘しています。その次からは、考えをあらためて、ましな診療情報提供書になりますがね、大抵は。いまのところ、次の生息地は「故郷」の戸畑になりそうです。玄界灘がやはり、私には似合います。それでは。

ポップスの天才児、◎△のCDジャケットにも使われている絵画

 
 
 
 

私のスマホ、買い換えます。それと門司港ホテルラウンジ「Tempo」

味わい深い字体の 間(Tempo)
このところ、私のiPhone12Proの挙動がおかしいです。アプリがまず、ほとんど立ちがりません。
 お店のレジで、グルグル回る廻る、目も回りますし、列を作っていらっしゃる他のお客さんたちの視線をイヤほど感じます。
 あと少しで15が出るはずなのですが、昨日はついに耐えかねて、糸島のドコモショップにいる甥っ子に電話してしまいました。
「あのね、もうギャラクシーの新しい出たやつ、あれにしようかと思ったんだけど、よく考えてみたら、Google Photoに同期しなければいけなくなるし、それに便利でよく使っている、え〜と何だっけ、そうそう思い出した、そうそうエアードロップもね、使えなくなるじゃん、だから、もうこの際、思い切って現行機種の一番容量の大きいやつで、画面も一番大きいの、うん、そうそう、その iPhone 14  ProMaxで、容量はそうね〜512ギガあればいいかな、うん、何だって、「オジさんはいつも容量をケチるから、2年もたたないうちにスマホが言うことを聞かなくなって、それで毎回毎回同じ事を繰り返しているでしょ、だから1テラバイトにしたらどうですかって?」・・ウン判った、じゃ、そうしよう、何 色? そうねえ新しくでた色で、うんなになに、パープル、いいね、じゃそれにしよ、そうね、次が出るのは判っているんだけど、毎日毎日使うものでしょ、それがもう今の時点で悲鳴を上げているんよね、うん?誰がって?そりゃー私ですよ、オジさんですよ・・と会話は続くのでした。
 いえね、判っているんですよ。そりゃー新型がいいに決まっていますがね、私はどうも天邪鬼でして、世間がこっちだーと流れると、私は決まって反対の方に歩きますからね。
それに私は、新型のちょっと前の熟成された、渋みやエグさがある旧型に拘りをもちますからね。
 それで、甥っ子がこれから私の希望のiPhoneを探してくれることになりました。いや、これで一件落着と相成りますかは、またのご報告とさせていただきます。
 以上、異常を来している私のスマホでしたが、そうそうそれともう一つ、このスマホ、持ち主に理も無く、勝手に電話する癖がある、え、そんなことは無いだろうって、まあそうなんですがね、私のお尻のポッケに入れていたら、私のお尻がぴっぽっぱってね、ボタンをね、押しているらしいんですね。それで、勝手にね・・、あ、もうお時間ですね。
 散夕亭、夢四郎でした。(*^ー^)
それから、もう一つ、この写真はプレミアムホテル門司港の9階のバーなのですが、「三国魏の時代、最盛期からやや遅れた隷書碑の文字。漢代に完成した隷書の美には乏しいが、独特な味わいを持つ。」間(曹真残碑)というプレートが入り口にあります。英語ではTempoですが、よくいうでしょ、テンポ良くってね、あれですね。いえね、この字体、独特の味わいがあるじゃないですか、人間もね同じだってね、常々思いますもんね。スマホだってね、たぶんですよ、持ち主にだんだん似てくんじゃないかねって、そう思いたいんだよね、私は。
 これで本当に、それでは、でした。

戸畑図書館と和菓子屋「大元」の銘菓

戸畑図書館2階開架図書 ルポなどのコーナー 闘病記
今日は、戸畑図書館に寄ってきました。
1階はこども対照で、2階が一般の大人を対象にしていました。
レンガ造りのレトロな外観ですが、中は現代的でした。まずトイレが1階と2階にあり、同じ作りになっています。超綺麗❗
 2階の閲覧席の椅子が豪華な革張りで、座り心地は上々以上で、驚きました。
静かに読書できますし、調べ物も捗りました。
  とても気に入りました。
私の場合、どこに住むかは、その土地の持つ「気」と図書館や美術館、博物館が気に入るかどうか、それに和菓子屋さんと普段使いができるフレンチやイタリアンのお店があるかどうか、それに海や川の傍であるとポイントが高いです。これまで、熊本市宮崎市、福岡市城南区、日南市、戸畑市、福岡市中央区福岡市東区吉野ヶ里町佐賀市唐津市大阪府豊中市、日田市、福岡市西区、東京都護国寺、千葉県旭市、そして田川市と移り住んで来ました。どこも住めば都、それぞれに楽しめました。
 戸畑は9才から20才まで過ごした街です。先祖代々住んでいた街ではないのですが、故郷はどこですかと問われれば、それは間違いなく戸畑でしょうね。
 昨日、戸畑高校の同窓会「古希の会」がリーガロイヤルホテルでありました。
 「元気やね〜」や、「変わっとらんな〜」などの社交辞令が飛び交い、私には「小早川、おまえ、高校の時といっちょん変わっとらんな〜、どうしたらそんなに若くいられるの?」と、目を丸くしているのもいました。
 何しろもう遠慮というものがありませぬ。いいんです、それでいいんです。
 私は「先頃、厚生労働省から、認知症、いえ私が認知症ではなくて、認知症サポート医のお免状をいただきました、小早川です、今は田川に住んでいます。もし、自分は認知症かなとか、家族が認知症になって困っているときは、私までご連絡ください。何ともならないかもですが、何とかします。」と挨拶しました。
 皆さん、はっちゃけていて、とっても楽しかった〜
 〆は久しぶりに戸畑高校の応援歌を歌い、大合唱で幕を閉じました。
幹事の同級生は天籟寺小学校からの同級生で、「天籟寺小学校の校歌なら歌えるし、ピアノでもオカリナでも演奏できるから、何か役に立てればいいな。」と意思表示しました。そのうち連絡があることを待っています。
 今度は77才の喜寿の会でしょうか、それまで、元気で働いていることができれば幸せですね。
 今や、常勤で勤務している仲間はほとんどいなくなり、来年3月には大学で教授している村谷君や京都大学医学部大学院で非常勤研究者をしている天才伊藤君たち同級生も皆リタイヤするとのことでした。
 私は、体力、気力が続く限り、生涯医師として現役で働きたいと願っています。今は緩和ケアしかしていませんが、たぶんこれから老健施設などでも働くことになるのでしょう。
 実際に、大学時代の友人たちは、開業しているのを除けば、皆さんそういった働き方をしているようです。
 体力や気力はまだまだいけると思いますので、何とか今の仕事をできるだけ長く続けていければいいな、そう思います。
 しかし、終の住処、どこにしましょうかね。戸畑もいいですね。これからじっくりと考えていくことにしましょう。
 それにしても、戸畑図書館、気に入りました。また来ます。

戸畑中本町商店街 和菓子屋「大元」の銘菓2つ
それと中本町商店街の和菓子屋さん「大元」の店主さんは九州工業大学電気科中退してお店の跡を継いだとのことで、野球部だったと。九州工業大学の野球部のグラウンドは今もありますが、昔、旭化成のグラウンドだったところ、今は明治学園のグラウンドになってしまっています。変われば変わるもんですねとか、野球談義に花が咲きます。
 高校時代、野茂英雄さんの弟さんと繫がっていたとか何とか、少し伺いました。今度でお近づきになった気がしていて、ここにもまた美味しい和菓子、「大元」と「戸畑」を購入しに行きます。
それでは。

Tempo(間)よく

このところ、私のiPhone12Proの挙動がおかしいです。アプリがまず、ほとんど立ちがりません。
 お店のレジで、グルグル回る廻る、目も回りますし、列を作っていらっしゃる他のお客さんたちの視線をイヤほど感じます。
 あと少しで15が出るはずなのですが、昨日はついに耐えかねて、糸島のドコモショップにいる甥っ子に電話してしまいました。
「あのね、もうギャラクシーの新しい出たやつ、あれにしようかと思ったんだけど、よく考えてみたら、Google Photoに同期しなければいけなくなるし、それに便利でよく使っている、え〜と何だっけ、そうそう思い出した、そうそうエアードロップもね、使えなくなるじゃん、だから、もうこの際、思い切って現行機種の一番容量の大きいやつで、画面も一番大きいの、うん、そうそう、その Iphone  ProMaxで、容量はそうね〜512ギガあればいいかな、うん、何だって、「オジさんはいつも容量をケチるから、2年もたたないうちにスマホが言うことを聞かなくなって、それで毎回毎回同じ事を繰り返しているでしょ、だから1テラバイトにしたらどうですかって?」・・ウン判った、じゃ、そうしよう、色? そうねえ新しくでた色で、うんなになに、パープル、いいね、じゃそれにしよう、そうね、次が出るのは判っているんだけど、毎日毎日使うものでしょ、それがもう今の時点で悲鳴を上げているんよね、うん?誰がって?そりゃー私ですよ、オジさんですよ・・と会話は続くのでした。
 いえね、判っているんですよ。そりゃー新型がいいに決まっていますがね、私はどうも天邪鬼でして、世間がこっちだーと流れると、私は決まって反対の方に歩きますからね。
それに私は、新型のちょっと前の熟成された、渋みやエグさがある旧型に拘りをもちますからね。
 それで、甥っ子がこれから私の希望のiPhoneを探してくれることになりました。いや、これで一件落着と相成りますかは、またのご報告とさせていただきます。
 以上、異常を来している私のスマホでしたが、そうそうそれともう一つ、このスマホ、持ち主に理も無く、勝手に電話する癖がある、え、そんなことは無いだろうって、まあそうなんですがね、私のお尻のポッケに入れていたら、私のお尻がぴっぽっぱってね、ボタンをね、押しているらしいんですね。それで、勝手にね・・、あ、もうお時間ですね。
 散夕亭、夢四郎でした。(*^ー^)
あ、いけないや、それから、もう一つあったんだ、この写真はプレミアムホテル門司港の9階のバーですが、「三国魏の時代、最盛期からやや遅れた隷書碑の文字。漢代に完成した隷書の美には乏しいが、独特な味わいを持つ。」間(曹真残碑)というプレートが入り口の壁に打ち付けてあります。
 英語ではTempoということらしんですがね、よくいうでしょ、テンポ良くってね、あれですね。いえね、この字体、独特の味わいがあるじゃないですか、人間もね同じだってね、常々思いますもんね。
 これで本当に、それでは、でした。

門司港ホテル9階、バーTempoの表札

同窓会、出席できて幸せでした。

今日は、戸畑図書館に寄ってきました。
1階はこども図書館と新聞閲覧室、ちょっとしたカフェで、2階が一般の大人を対象にしていました。
レンガ造りのレトロな外観ですが、中は現代的で、明るい印象でした。まずトイレが1階と2階にあり、同じ作りになっています。超綺麗❗
 2階の閲覧席の椅子が豪華な革張りで、座り心地は上々以上で、驚きました。
 静かに読書できますし、調べ物も捗りました。
 とても気に入りました。
私の場合、どこに住むかは、その土地の持つ「気」と図書館や美術館、博物館が気に入るかどうか、それに和菓子屋さんと普段使いができるフレンチやイタリアンのお店があるかどうか、それに海や川の傍であるとポイントが高いです。これまで、熊本市宮崎市、福岡市城南区、日南市、戸畑市、福岡市中央区福岡市東区吉野ヶ里町佐賀市唐津市大阪府豊中市、日田市、福岡市西区、東京都護国寺、千葉県旭市、そして田川市と移り住んで来ました。どこも住めば都、それぞれに楽しめました。
 戸畑は9才から20才まで過ごした街です。先祖代々住んでいた街ではないのですが、故郷はどこですかと問われれば、それは間違いなく戸畑でしょうね。
 昨日、戸畑高校の同窓会「古希の会」がリーガロイヤルホテルでありました。
 「元気やね〜」や、「変わっとらんな〜」などの社交辞令が飛び交い、私には「小早川、おまえ、高校の時といっちょん変わっとらんな〜、どうしたらそんなに若くいられるの?」と、目を丸くしているのもいました。
 何しろもう遠慮というものがありませぬ。いいんです、それでいいんです。
 私は「先頃、厚生労働省から、認知症、いえ私が認知症ではなくて、認知症サポート医のお免状をいただきました、小早川です、今は田川に住んでいます。もし、自分は認知症かなとか、家族が認知症になって困っているときは、私までご連絡ください。何ともならないかもですが、何とかします。」と挨拶しました。
 皆さん、はっちゃけていて、とっても楽しかった〜
 〆は久しぶりに戸畑高校の応援歌を歌い、大合唱で幕を閉じました。
幹事の同級生は天籟寺小学校からの同級生で、「天籟寺小学校の校歌なら歌えるし、ピアノでもオカリナでも演奏できるから、何か役に立てればいいな。」と意思表示しました。そのうち連絡があることを待っています。
 今度は77才の喜寿の会でしょうか、それまで、元気で働いていることができれば幸せですね。
 今や、常勤で勤務している仲間はほとんどいなくなり、来年3月には大学で教授している村谷君や京都大学医学部大学院で非常勤研究者をしている天才伊藤君たち同級生も皆リタイヤするとのことでした。
 私は、体力、気力が続く限り、生涯医師として現役で働きたいと願っています。今は緩和ケアしかしていませんが、たぶんこれから老健施設などでも働くことになるのでしょう。
 実際に、大学時代の友人たちは、開業しているのを除けば、皆さんそういった働き方をしているようです。
 体力や気力はまだまだいけると思いますので、何とか今の仕事をできるだけ長く続けていければいいな、そう思います。
 しかし、終の住処、どこにしましょうかね。戸畑もいいですね。これからじっくりと考えていくことにしましょう。
 それにしても、戸畑図書館、気に入りました。また来ます。
それと中本町商店街の和菓子屋さん「大元」の店主さんは九州工業大学電気科中退してお店の跡を継いだとのことで、野球部だったと。九州工業大学の野球部のグラウンドは今もありますが、昔、旭化成のグラウンドだったところ、今は明治学園のグラウンドになってしまっています。変われば変わるもんですねとか、野球談義に花が咲きます。
 高校時代、野茂英雄さんの弟さんと繫がっていたとか何とか、少し伺いました。今度でお近づきになった気がしていて、ここにもまた美味しい和菓子、「大元」と「戸畑」を購入しに行きます。
それでは。
追伸 このブログで、aki100mac`s blogは100本目となりました。目出度い。

戸畑 中本町商店街の老舗、「大元」の銘菓

安西 水丸さんの「たびたびの旅」のような本を、僕も創りたい。

皆さん、お元気ですか。

今日は5月27日、土曜日です。

田川で書いています。

ここに転居してきて早3年が過ぎました。

福知山、香春岳、遠くに英彦山を望み、目の前を英彦山川が流れ、雲は近くの山々から湧き出で、近い空をポッカリポッカリ流れていきます。

朝は、ヒバリや雀たちの合唱で目覚め、昼はカラッとしたお日様のひたすら元気な光線に照らされ、夕方は赤とんぼが舞い、夜は満点の星空を眺め、自然の息吹にドップリと身を浸しています。

 ここのサイト以外にも、あちこちで書いてきたものを一つに纏めてみようかな、最近そのように思います。

 いわば、自分の著作集ですね、それを完成させてみたいと願っています。

そして、その中から、小学生でも読めるような文体にして、自分としては、小学生や中学生、高校生にこれを読んで欲しいな、そんな文集みたいな小さな本を作ってみたいものです。

 具体的なイメージとしては、安西 水丸さんの著書、「たびたびの旅」のような小さいけれど、しっかりとしていて美しい装丁にすることができたら最高です。ちなみにこの本のサイズは、12cm×15.4cm×1.5cmくらいです。

 そう言うわけで、このブログでとうとう99まで来ました。

あと一つで、それはたぶん今晩あたり・・、で100に到達しますね。

 

 

小早川晶方式がん性疼痛緊急治療法で痛みがゼロになり、生活を楽しむ余裕が生まれています。

緩和ケア病棟の心優しい看護師さんたちが描きました。

某病院から紹介されて、私たちの緩和ケア病棟に入られ、「全身が痛い」と泣いておられたAさん、愛するWife 、Daughterとともに、1週間生活されておられます。前の病院では、酷い痛みに対して、カロナール錠の頓服しか出されていませんでした。痛みをちゃんと評価していなかったですし、そもそも患者さんの「痛い」という言葉をまともに取り上げていなかったのです。

 患者さんの痛みをちゃんと評価していなかったのは医師だけではありません、その病院の看護師もそうでした。

 そこは大きな総合病院ですので、緩和ケアチームがあることを知っています。でも、あるだけで、ちゃんと機能していないと言わざるを得ません。

「(NRS)10以上痛くて痛くて死にそうです、殺してほしい。」と呻いておられたのですが、「小早川晶方式がん性疼痛緊急治療法」で、転院されたその日のうちに、「痛みが消えましたありがとうございます。」と顔をくしゃくしゃにして喜んでおられました。

1日が30時間だったり、10時間だったりしていますが、とりあえずは「痛みはゼロ、全くありません。」と屈託無い笑顔です。

 今ではお風呂を楽しんでいます。「身体を動かしても痛みはありません。」と。Wifeは、「ここに来て先生に痛みの治療をしてもらえました。すぐに痛みが消えて、笑顔が戻りました。ここに来て良かったです。」と感謝されました。

 今は、大きな液晶テレビで、大谷翔平さんの特大のホームランも楽しめます。好きな映画もご家族で思う存分観ておられます。一家の団らんが戻ってきました。

  そして、今週土曜日には、結婚53周年のお祝いが待っています。

当院の緩和ケア病棟で、最初の「イベント」になりますね。

緩和ケア病棟のスタッフ全員でお祝いできるといいですね。

おめでとうございますお二人に、またご家族に幸多かれとお祈りします。

 それにしてもです、がん性疼痛治療には、段階を踏んで、ゆっくりと対処できるタイプの痛みに対する治療法もあります。他方、とんでもない痛みが襲っているときには、私が編み出した「小早川晶方式がん性疼痛緊急治療法」で、できるだけ早く痛みを消し去る努力をすべきです。

 よくあるのが、今は夜だし、朝が明けてから、上司とも相談をして、それから考えればいい、と痛み治療を先延ばしにすることです。

 とんでもない痛みに襲われている患者さんの「今」に対処する気がないのです。「今そこにある痛み」に対処できないようでは、「医療者」として失格です。厳しいことをいうようですが、夜中痛みに苛まれる患者さんを見捨てているのと同じです。

 それと、医師にありがちなのが、自分の専門分野に拘り、患者さんの「今」を看ていないことです。例えば消化器内科の医師が、「モルヒネを使うと消化管の動きが妨げられて便が出にくくなる。それはまずいので、消化管に比較的影響が少ないフェンタニルにしよう。」と断定してしまうことです。

 あと1,2日で臨終を迎える臨死期の患者さんにとっては、「消化管を動かして便を出すこと」がその時点、「今」を生きている人への対処法ではないはずです。「今」は、癌末期で、「身の置き所のない苦痛」に喘いでいる患者さんの、最期の苦しみにすぐに対処すること、それこそが必要なことです。

 そして、WHOの「緩和ケア」についての定義を忘れている、あるいは知らないことです。

日本ではPEACEといって、「医師への緩和ケア初期研修プログラム」を受けることが義務化されています。

そこで、勉強している筈なのですが、1日の研修が終われば、もう忘れてしまっています。多くの医師にとって、あれは単なる「通過儀礼」に過ぎないのでは、そう思ってしまうくらい、臨床の現場では、「あなた、ちゃんとPEACE受けました?」と訝しみ、落胆することが多発しています。

「緩和ケア」の定義には、なんと記載されていますか?

 あらためて「緩和ケアの定義」を私の最近の著書「老いの緩和ケア」から引用してみます。

『The goal of palliative care is achievement of the

Best possible quality of life for patients and their families.

 緩和ケアの目的は、患者と家族の可能な限りの最良のクオリティ・オブ・ライフの達成である。(私訳)

 Palliative care affirms life and regard dying as a normal process;neither hastens nor posptones deatsh;provides relief from pain and other distressing symptoms;integrates the psychological and spiritual aspects of patient care;offers support system to help patient to live as actively as possible until death;and offers a support system to help the family to cope during the patient`s illness and in their own bereavement.

                                                      WHO

 緩和ケアは生命を肯定し、死を自然の過程とみなし、死を急がせることもせず、延ばすこともしない。

 疼痛や他の不快な症状を緩和し、精神的なケア、スピリチュアルなケアもその中に包括される。

 患者が死ぬときまで、できる限り活動的に生きることができるようにサポートし、彼らの家族に対しても、患者の闘病期間中はもとより、死別後も家族が悲嘆を乗り越えられるようにサポートしていく。

                                    WHO(世界保健機構)私訳

・・緩和ケアはend-of-life care(エンド・オブ・ライフケア)において、普遍の力を発揮しているのです。』

 人生の最期の段階で、がんなどに蝕まれてしまった身体が発する苦痛を最大限に緩和してこそ、BST(Best Supportive Care)であり、Palliative Careなのです。

 「痛みの治療の変更は明日にしよう」とか、「消化管を動かなくするのはまずいので、痛みは緩和できないかもしれないが、フェンタニルにしておこう。」などと考えては、それこそまずいのです。

 「今何が患者さんにとって必要なのか?」それを考えることこそが、「マインドフルネスにある深い気づきと臨床的調和」を唱えるwhole person careの出発点です。 

 私は、こういった臨床的なヒューマンエラーは現状維持バイアス認知バイアス、自信過剰バイアスなど、いろいろなバイアスが私たちにあることを素直に認めて、ではどうすればいい

のか、虚心坦懐に自らの至らない所に思いをいたし、そして仲間と共に前に向かって進んでいく勇気が必要だと思っています。

 私が編み出した「小早川晶方式がん性疼痛緊急治療法」の具体的な事については、今後勉強会などで開示していきます。乞うご期待。

さて、今日はこれから戸畑高校28会の同窓会が小倉であります。平成17年、2005年6月11日、ホテル京阪で、戸畑高校を1970年に卒業して35年の同級生が集いました。

 その記念誌が今手元にあります。その巻頭言の中で、「・・この京都大会で同窓の仲間が“今生きる喜び”を心と体で感じ取ってもらえる感動の場になれば、これ以上のことはありません。(当日のパンフレットからの抜粋)」とあります。

 そうなのです、「今生きる喜び」を、届けることが、私たち医療者にはとても大切ですし、それが私たちが医療者になったきっかけだったのではありませんか。

 自分の専門分野だけに思考を留めず、もっと広く、大きく、高く、自らの頭で考えていこうではありませんか。

 Let` Go❗