aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

我が祖母のこと

田川市立病院 医師マンション 庭

ツツジが綺麗に剪定されていて、気持ちがいいです。剪定は、昔は職人さんたちが数人で、剪定ばさみでしていたものです。
 母方の祖父が天草で開業していました。
旧制中学の校長先生のお宅だったというお屋敷で開業していましたが、時期になると、庭中の木々の剪定が始まり、私は広い縁側で、興味津々観ていました。
 昭和30年代、そうですね、昭和32年、33年頃だったでしょうね。私が4,5才の時だった記憶があります。
 祖父が脊椎カリエス?で亡くなると、大変だったようです。もともと、祖父は全国の帝大系以外の医学校で一番成績が良くて、東京帝国大学京都帝国大学の医学部の卒業生と3人、日本帝国からドイツへの留学を命じられました。
 外国航路で、横浜から乗船する直前に肺結核が判明し、ドイツへの留学は叶いませんでした。 
出身校の熊本医学専門学校(現在の熊本大学医学部)の外科学教室の教授と相談をし、肺結核を治療しました。その後自身の療養を兼ねて、出身地の長崎県千々石からほど近い天草で外科医院を開業していたのでした。中村醫院と、昔の書体でガラス戸に書かれたその玄関の脇に、バナナの木が1本植えてあったのを想い出します。玄関の引き戸を開けると、そこは広い土間で、左に診察室と手術室があり、シンメルブッシュが絶えず蒸気を出して、なかのメスや針やガラスの注射器などを消毒していました。右手は家族や奉公している使用人たちが居住している広大なお屋敷に繫がっていました。廊下をずんずんと進んでいくと、10部屋ばかりの個室があり、そこが入院病棟でした。
 祖父が近所に往診に出るときは、婦長以下数名が樫仕え、ちょっとした行列でした。子ども心にも「お爺ちゃんは偉いんだな。」とそう思いました・・。
 祖父は自転車で往診をし、峠で一句認めるなどしていたと伝え聞きます。白濤でお産が長引いた時には、白濤の乳母(私の叔父や伯母たち8名にはそれぞれ乳母がついていました・・)の家に泊まっていたそうです。
 船の事故が多く、重傷者が醫院に担ぎ込まれていました。たいそう腕のいい外科医で、何でも熟していたそうで、地元の人たちに頼りにもされ、愛されていました。
しかし、脊椎カリエスで58才の時この世を去りました。
祖母は、彼が集めていた絵画や書などを売りながら、叔父が熊本大学医学部を卒業するまでの数年間、熊大の同窓会や、醫事新報などでアルバイトの募集をしました。「晶ちゃんや、それは大変だったよ。仕事はしなはらんで、ギターばかり弾いている先生が来たりして・・」と笑顔で私に語ってくれましたが、そこには他の人が窺い知ることのなかった苦労があったのでしょうね。
 さて、当時は『代診さん』がいて、祖父に弟子入りをしていまして、外科醫になれる直前で、国の制度が変わりました。
 それで代診さんをあてにすることも叶わなかったようです。それでも、代診さんは醫院の傍で、メスを包丁に持ち替えて「仕出し屋」を開業し、それはそれはたいそう賑わっていました。
祖母は、その代診さんがお亡くなりになった時に、先祖の墓よりも立派な墓(小さなタージマハール級?!}を先祖代々の土地に建てました。
 彼女の報恩の精神、それに律儀な性格が判りますね。
私に取りまして、祖母は生ける偉大な人、教師、知恵の人でした。
 彼女は、旧長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部}付属の看護学校、それに助産師学校を優秀な成績で卒業していました。
しかし、私の母によりますと、「そのことが判ると看護師として働くことになるので、私は醫院を開いている外科医の妻としての、事務長的な働きをすることに専念しないといけなかったから、それで、長女にしか看護師免許や助産師免許を持っていることは教えていなかった・・」とのこと。まさに深慮遠謀の人でした。他にもたくさんの逸話が残されていますが、本日はこのくらいにします。
2年前、まだコロナがそこまでひどく蔓延していなかった頃に、お墓参りをしましたが、今年はまだ行けていません。
 今年は、何かしらの良い報告を携えて、町を見下ろす丘の中腹に立つ、祖母や祖父の眠るお墓をお参りしようと思っています。

海峡の向こうに普賢岳を望む天草の海にて