大分合同新聞の記事に、同調圧力のない社会を是と考えます。
今日は大分県直入町の長湯温泉に来ています。旅館の内湯に浸かり、サッパリして図書室にて大分合同新聞を読みました。そこには「迷い道」と題するショートコーナーが記載されていました。「つながりながら縛らぬ」町として、徳島県南部の海洋町で育ったある女性のことが記事になっていました。「10年ほど前に、自殺の発生率が全国で最も低い自治体」として一躍脚光を浴びた、その町を若い頃はそんなにいいとは思っていなかったそうです。
その町は、「近所づき合いは活発だが、べたべたしていない。困っている人がいれば、手助けし、人にも遠慮なく助けを求める。「右へ倣え」を嫌い、人と違っても排除されない、年長者は下の者に威張らない。」とこの記事は書いています。
「自分が納得できる理由がなければ同調しない。他者に左右されない頑固さは、裏を返せば自由な雰囲気の源でもあった。女性は京都で作業療法士として働くことになったが、そこで WRAPというプログラムに出会った。メンタルヘルス(心の健康)の回復プランから生まれたもので、・・・、人生の主導権を医療者から取り戻そうという動きでもある。」そうです。
「・・カンファレンスは医療者だけで行われ、患者不在のまま処遇が決められる。」病院の現実に嫌気が差したのでしょう。この女性は出勤できなくなり、休職し、鬱状態になって自宅に引きこもったということです。結局病院は辞めて、今は神戸の訪問看護ステーションに勤務している。「ただ、そばにいる」というケアのあり方を考えるようになったそうです。
困っているときは助けるが、でも生き方を決めるのは結局の所自分しかいない、という考えは、実は故郷の、「繋がりながら縛らない」という海部の人たちが大切にしてきた価値に似ているそうです。理想の職業観は故郷の原風景に刻まれていた、そのことにようやく気づいたということでこの記事は締めくくられています。
同調圧力が大嫌いな私ですから、この記事には大いに賛同します。同時に、日本という国で、同調圧力が強い所には住みたくないな、とそのように思います。
やはり、文化がない田舎よりも文化溢れる都会のほうがいいのでしょうか。多様な価値観が大事にされるところ、そこを希求していきます。
でも、どうして、徳島の田舎の町、海洋町は、同調圧力がないのでしょうね。不思議です。
いろいろ調べてみました。するとちょっと特殊な町の成り立ちがあり、そこに集う人々が形成している社会が、日本の通常の社会とは異なることが判ってきました。そのあたり、もし興味がある人は、この記事を読んでみてください。とても面白い論文だと思います。
大分に来ています。LPレコードを置く素敵なレコード店を見つけました。
大分に来ています。
アミュプラザ大分は面白いところです。一つ一つの店がそれぞれ自己主張しているんですが、それが全体として、個性のある空間になっています。
ただ、レコードショップが無かったので、インフォメーションで訊きました。
大分駅から続く、セントポルタ中央町の中程にETO NANKAIDOというショップがあるとのこと。駅から歩いて10分くらいのところ、商店街の中程の所にありました。覗いてみました。
ピエール・ブゾンというピアニストの弾く、ピアノバラード「ラ・ヴィー」という2枚組のLPレコードを購入しました。少し盤面が反っているとのことですが、なに、音がちゃんと出れば問題ありませんからね。
ブゾンというピアニストは、昔帝国ホテルのラウンジなどでピアノを奏でていた人らしい。このレコードは、ずっしりと重く、パリの街角を切り取ったかのようなジャケットが素敵です。ほとんどジャケ買いしてしまったと言われても仕方がない、そのようにして今手許にあります。
今はもう夜も10時を廻っていますので、明日の朝、持ってきたポータブルのレコードプレーヤーにかけて、菅野置彦という伝説の録音担当の凄腕の仕事ぶりを体感してみたいと思います。
もう1枚は、「ポートランドのキーボード奏者、ダン・シーゲルが1982年にリリース。当時フュージョン旋風が起きた爽やかな作品。LARRY CARLTONがギターで参加!
W/OBI,ライナー付き.」というものです。
これもほとんどジャケ買いでした。アメリカ西海岸を連想させるような、アメリカの白人の女の子の水着の後ろ姿。これはやられました。
あのマーリン・マクレインやラリー・カールトンがギターで参加しているからには、きっと気に入るに違いありませんからね。
なかなかよいお店にあたりました。
大分駅に向かって帰っていましたら、レンガ造りの建物が道の向こう側正面にあるのが目に入り、脇道に入りました。すると、クラフトビールとソフトクリームを販売している、ちょっと面白いショップを見つけました。そこで売られていたビールは、何と、福岡圏は遠賀郡岡垣町のクラフトビールだったんですね。そのビールの中で、ヱビスビールに近い印象のものを買い求めました。
大分駅前は、空間がゆったりしていて、人もそんなに多くなく、すべてがユックリしています。せわしくなく動き回っていると言う印象は無く、余裕を感じます。
気持ちをピンと張りながら仕事をしているようなとき、ここに来るとだいぶノンビリして、生活のスピードも抑え気味になりますので、かなり気持ちの上でリラックスできます。
イヤ_〜いいところです。
ある日の緩和ケア内科外来・・
ある日の緩和ケア内科外来・・
ある基幹病院から紹介されてきた母と娘のお二人。
外来の部屋に入っても、何だか落ち着きません。
私は、外来に入ってこられてお二人に、こんにちは、緩和ケア内科の◎◎です。
宜しくお願いします。
今日来られたのは、なんとお呼びしますかね、◎△□◇さんですね。ご本人ですか。
ああ、そうなんですね。
それから、隣におられるのは・・、そうですか長女さんですね。
本日は、わざわざ来ていただいてありがとうございます・・・、といつものように外来を始めようとしましたが・・
うん?何だか雰囲気が・・、挑戦的な視線だし、弱ったな〜と思いました。
それでも気を取り直して、最近オンラインで始めたばかりのwhole person careのテキストにも確か書いてあったぞ、・・困難なケース、もうだめというような人が目の前に現れても決して投げ出すな、だったか、どうもちょっと違うような気がするが、でもそんな意味じゃないのかな、など考えまして、気を取り直し、外来を進めていきました。
受診前に採血していましたので、血液検査の結果を見ました。まだ肝機能などの数値が出ていませんでした。
私は、紹介されてこられる患者さんたちの半分くらい、あるいはもっとかな、かなりの割合で、ご自分の病状を正確には捉えていない、そんな現状を各地の緩和ケア内科外来で体験してきました。3年と3ヶ月近く、当地で緩和ケア内科外来をしていますが、やはり同じです。
皆さん、血液検査や画像診断の結果説明をちゃんと聴いておられないのか、あるいは医師がちゃんと説明しておられないのか、あるいは両方なのか・・。
それで、ご自分の病状が理解できていないまま来てしまうと、そのかたがたが求めているQOLと緩和ケア病棟側が提供できることとのギャップが生じてしまいます。
それでは、満足した滞在とはならず、混乱の元になります。過去にそういった騒動に巻き込まれて、ほとほと嫌になり、離職していった優秀な看護師さんたちを思い出します。
それではいけません。
私は、国や県や地方自治体から託されている、貴重で数少ない「緩和ケア病棟の病室」を、ちゃんと病状理解しておられて、真に希望しておられる方がたに利用していただくことにしています。それは病院の貴重なスタッフを守ることにも繫がります。
それで、提供されていた画像、その中でも私が重視している頭部、胸部、腹部、骨盤のCTを、実際に見るのはその時が初めてになりますので、「さきほどいただいたCTの画像の取り込みが終わりましたので、一緒に覧てもいいでしょうか?」とお断りをして、覧ました。
すると、あとで確認したのですが、その病院の放射線科の読影結果には記載されていないところが見つかりました。
少量の胸水ですね。ごく少量ですのでまだ症状としても顕在化していない様子です。
独り言を言う癖というのでしょうか、心の声がつい出てしまい、胸水ですね、咳とか息苦しさはありませんか?とお訊ねしました。 すると、「え、胸水なんですか?ワ〜、やっぱり、こんなところに来なけりゃ良かった。」とご本人だけではなく隣に座っている娘さんまでもそんなことを言うのですね。大声で。遠慮というものがありません。
いえね、ここ筑豊に来て3年と3ヶ月、もう当地の人々の直截な物言いには慣れたつもりです。つもりだったのですがね、それにしても、ね。初対面の医師に向かって、「来なけりゃ良かった、」とはね。ね、ね、そうお思いになるでしょう?え、そうではないって?
そんなことはあたりまえ、そうですか、それは失礼しました・・。
私はもともと堪忍袋の緒がとっても小さいのですね。すみませんね。
それで、「あ、そうですか、お帰りになりたいのであれば、いいですよ、どうぞお帰りください。では、これで終了しても宜しいのですね?」とお話ししました。
「あ、でも折角先ほど血液検査をしてもらいましたたから、その結果の説明を聞いてからでもいいのではありませんか?」と申しました。
それでPCで画面を呼び出しました。その数値を見て、私の判断ですが、と前置きして、
「先ほど、5月に◎科の先生から、外来で、あと6ヶ月は生きられない、と言われてしまったとのことでしたが、私はこう思っています。それは神様でも判らないことで、生きようとする本人の意志と身体の具合とで決まることであって、あなたがまだまだ生きたいと願うのであれば、人知を超えてそうなるのかもしれません。あなたはどう思いますか?」と伺いました。
すると、「そうなのよね、私はね、あんな先生、見返してやるんだとそう思っていますよ。」「まだまだ死ぬ気にはなれませんからね。あと3年は生きて、そしてあの先生に会いに行くんだから。」と意気軒昂です。
いや〜、こんな患者さんに来られても、その先生は驚くだろうし、迷惑なんじゃ〜ないのかな・・と思いましたね。
それで、それを聴いていた娘さんがけらけら、といいますか、豪快に「ワッハッハ〜」とそれはそれは大きな笑い声で、病棟中に響くようなけたたましい声で、愉快そうです。
あれ、何だか風向きが変わってきましたね。
それからは、「もう帰る、」とむくれていた同じ方とは思えないような、実にフレンドリーな方に印象が一変しました。
いまでも、どうしてそうなったのか、判りません。横にいたクラークの◎さんも、どうしてですかね〜、と首をかしげていました。
思いますに、病状を理解したくない、がんなどの命を脅かすかもしれない事態を、ほおかむりしてやり過ごそうとする、あるいは「これは夢なんだ、そうだ夢だ」と思おうとするヒトが結構いらっしゃる、そんなことなのではないのかな。
それで、その先生も、見るに見かねて、それで、ボツッとあと半年は生きられないんだから、ちゃんと考えましょうね、とそういうことでそんなことを仰ったのではないのかな、なんて考えました。
私はこう考えていました。「ウン、それはお怒りになるのは判るな。それで怒ったままここに来ちゃったんだね。こうしよう。今そこに居るこの患者さんの、今、にフォーカスしてみましょう。この方が何故怒っているのか、そこに焦点を当てて、いわば気持ちに手当してみましょう。そうしたら、何かラポール(関係性)が産まれてきて、そうしたら、この患者さんや娘さんと良い関係状態になれるのかもしれない。よーし、ここは頑張るぞ。へこたれないぞ。」ってね。
黒澤明監督が描いたあの「羅生門」という映画の凄さ。皆さんご覧になったことがありますか。
誰がウソをついているのか。はたまた全員がウソをついているのか。物事は多面体ですので、ある一方から光を当てても、それは真実を映し出していることにはならないのだな、とは、あの映画を劇場で観た若き日の私が考えたことでした。
なんにせよ、ガッカリして、あるいは怒って、私の外来からお帰りになるところだったのが、今では「ここに来て良かったわ。先生またくるからね。そうね、小早川って言いにくいから、コンバインと呼んでもいいかしら、うんそうしようっと」ともう私の渾名までつけちゃっています。
大ドンデン返しで、上機嫌でお帰りになりました。良かった、良かったですが、さて次の外来は如何しましょう、ね?
「また、何か辛い症状かなにかがあれば、クラークの◎さんにお電話くださいね。」
何とか、1時間の外来枠にぎりぎり収まりました。
さて、次の方、
◎△さんをお呼びしましょうね。
どうぞ、お入りください。
あ、初めまして、私は当院の緩和ケア内科の◎△です。
宜しくお願いします。・・・
このようにして、初めて会う方々の機嫌をできるだけ損なわないようにして、かなり神経を使いながらの外来が続きます。
全ての外来が終わってから、紹介してくださった各病院の先生方に『診療報告書」を作成し、その日のうちにFaxで送信し、郵便で原本を送付します。
それで緩和ケア内科外来が4時、5時に終了しても、その後のプログレスノートへの記載や先生方への返信などで1,2時間は軽くかかります。それから、緩和ケア病棟での夕方の回診、それにご家族との面談、これがまた時間がかかります。
自室に戻り、決裁書類に目を通し、サインし印鑑をつき・・そうしている間にも、「先生、薬が切れます・・先生また痛がっていますので、持続皮下注射の中身の変更を・・痰がたくさん出て苦しがっています、ハイスコの注射箋をお願いします・・先生、◎さんの遠いところに住んでいるご家族が、病状の説明を求めて、今突然来られました・・先生・・先生・・」と引っ切りなしです。
私一人しか、緩和ケア内科には在籍していませんので、少なくともあと一人は、必要ですよね。
神様、こんな私を憐れみ、助け手を派遣してください。伏してお願いいたします。
北九州市立美術館、戸畑のランドマークについて
あなたは、ご自分のお葬式とお骨の行く末を考えておられますか?
バッハオルガン曲集
自由に考えるということ
人の一生は、本人が満足したものとなるには、短すぎます、かといって、長く生きていればいいかというと、それもちょっと違うなと最近思っています。
要は、この世におけるポジションが大事なのではなく、どれだけ満ち足りた思いを感じることができるか。
旧約聖書のコヘレトが言うように、「すべては空しい」のですが、その中にあって、真に信頼できる、そのような事象に出会えれば、本望なのじゃないのかな。
信仰者であれば、その対象は神様になるのでしょうが、たとえ何も信じるものが無くっても、それはそれ、自分の一生のうちで、心が震えるほどの体験を一つでもすることができれば、それがその人にとっては何よりも大切なものになるのではないのかな。
こんなことを考えるようになったのも、やっぱり、我が父、峻烈だった父の影響だと、最近つくづくそう思います。
若い時はなかなか理解ができませんでした。その思想に追いつかなかったです。
でもこの年になってみますと。なるほど、そうだねお父さんと合点することが多くなりましたね。
ルーティンの仕事のことではなく、生涯をかけて、自分の為に成し遂げなければならない、もう一つの仕事のことです。 それは、私にとっては「自由に思考すること」「規制されないことをファッションにしたい」、そういったことですね。言ってみれば、思想界のピーター・バラカンになることです。
誰にも邪魔されず、思考することは自由です。その自由さを下敷きにして、今宵も思いっきり哲学してみましょう。
現世や後世で、私がどんな評価を受けるかには、全く興味がありません。
そんなことよりも、自分の気持ちに正直に生きていたいし、著作でならば、評価されてもいいかな、そのように思います。
吉野ヶ里町の古民家と卑弥呼伝説や太古の渡来人のこと
「ここが以前仏間だった所かな。」「ここは勉強部屋だったわね。」「ここは土間だったところね」と懐かしむことができました。庭の梅の木などもそれぞれ大きく育ち、立派になっていました。
野鳥の飛翔、香春岳、福知山の雄大で美しい景色、癒しの源泉です。
今朝も野鳥たちの鳴き声で辺りは満たされています。人の営みが始まる遙か太古の昔から、香春岳、福知山連山、英彦山、など山、川、野原の自然があり、その中を、イノシシや狸、イタチ、鹿などの野獣が駆け回り、空を飛ぶ雀やヒバリ、ホトトギスなどの野鳥たちが、自由闊達に飛翔していたことでしょう。
そんな風景、音、風を日々感じていますと、自ずから気が晴れて、気分が伸びやかになれますね。
私たちの緩和ケア病棟に来られて、「小早川晶方式 がん性疼痛治療法」を受けられて、痛みが雲散霧消していくのですが、それにも増して「気が晴れて」、病気の進行が一時的に止まったかのように見えて、自宅や新たな特別養護老人ホームなどに退院される方々が結構な割合でいらっしゃいます。
皆さん、「奇跡です。」と言われ、屈託無い笑顔です。
そして、それぞれが生活なさっているところで、最期まで、暮らしておられます。
私たちの方から訪問していて、医療用麻薬を訪問調剤薬局に託したり、あるいは、モルヒネの持続皮下注射器をMEから貸し出し、訪問看護部門が薬液の詰め替えをしています。
そうして、できるだけ、慣れ親しんだ環境で生活ができますように、本人やご家族とよく相談をして、調剤薬局やケアマネージャー、行政とも相談をしています。
緩和ケア病棟スタッフの人間力と、田川、香春を取り巻く自然の力、それに太古の昔から続くもともとこの土地が持つ力、そうした力がこの地には漲っている、そのように感じています。
人は、生きる力を自然から得ていると思いますが、そうした力を取り戻すためには、山の気にドップリと浸かることが必要なんだなとおもいますね。
私がときどき行っています、大分県の直入町にありますBBC長湯のコテージのトイレには、有名な作家さんたちが書き残していったサイン画が掲げてあります。
その中に、「・・・気を取り戻すために、私は、山に来る必要があった・・」と認めてあるものがあります。
私も全くその通りだと合点しています。
ここに生息している方たちは、この風景が当たり前だと思っていらっしゃるのかも知れませんが、北九州工業地帯や福岡商業都市で専ら生活してきた私にすれば、当たり前ではなくて、何とも贅沢な風景だと言わざるを得ません。
この贅沢で、伸びやかな風景を、守ってこそ、この田川や香春の良さを後世に伝えていける、そのように考えています。