aki100mac’s blog

日頃考えていること、体験したことをブログしています。

逃げきれた夢、でも、今からでも遅くないと誰かに後押しして貰えれば、違う人生が始まりますよ、ね。

カンヌ映画祭参加作品「逃げきれない夢」、昨日、リバーウォーク北九州で観ました。黒崎、戸畑、門司、若松など、ロケは全部北九で行われたそうです。それで、北九の地元の人たちでしょうね、たくさん観に来ていました。
 リバーウォーク北九州、本当に久しぶり。といいますか、小倉に出るのも随分と久しぶりだったような・・小学3年生のときに、宮崎県日南市から出てきて、大都会だと思いました。大きな建物、戸畑岩田屋、小倉井筒屋、ナガリ書店、電車通りにあった名前は忘れましたが、大きな書店、西鉄バス、一枝にある明治学園、中原に今もあります、九州工業大学、それになんと言っても「東洋一の吊り橋」だった若戸大橋など、めくるめく最先端の町でした。言葉が、宮崎弁とは違っていましたから、まずは言葉が違うのに慣れませんでした。今考えると、北九弁も結構方言そのものなんですがね。当時はその言葉に慣れようと、大変でした。
 父親は基督教会の牧師ですから、私有財産は皆無でした。家も土地も貯金も何もありません。後年随分困窮しましたが、そこは子どもたちが、何とかしました。
 何しろ、親戚から相続した纏まったお金を全部、教会と附属幼稚園の経営の資金にしましたからね。それでも、生存中は何とかなりました。
 今は両親は亡くなり、一部の骨だけが、骨壺に入っています。
 また、宮崎市佐土原に居住していた私の父の姉たちが3人いましたが、皆亡くなっています。
 長女の君子さんは、地元の高等師範学校を出てピアニストになりました。東京にありました毎日交響楽団などと共演していたそうでして、自宅、まあこれは私の祖父母が暮らしていた、父の実家ですが、そこに「九州音楽塾」とたいそうな名前をつけて、そこでお弟子さんをとっていました。そのお弟子さんが東京藝大などに進学すると自慢していたものです。
 彼女は生涯独身でしたから、老いて認知症になったとき、私が佐土原も家から救い出して、福岡市西区のグループホームに入れました。そこで12年暮らし、そして老衰で亡くなった、そのお骨も私が預かりました。そして、彼女を宮崎の自宅から救い出したときに、小さなお仏壇、その中に入っていた、おそらくすぐ下のこれまた生涯独身で、高校の音楽教師をしていた妹さんのお骨と思われる小さな骨壺も同時に預かることになってしまいました。これら、行方の定まらない骨壺たちを4つ、持ち歩いていました。助けて〜、神様〜ッ〜❗
 私が転居するとそのたびにそれらを一緒に持ち運んでいました。かれこれ10年前後、自宅のリビングで、丸善で購入した大きな本棚の右の段にそれぞれ1段ずつをあてがい、その棚に安置していました。
今度、2023年7月末に、いよいよ私たちのお墓が完成します。
これでやっと、両親と伯母たちのお骨を安置することができます。私たち夫妻が、旗揚げをして、完成させます。これで私たちも、それから希望すれば子どもや孫たちも、このお墓に眠ることができます。
 そう考えますと、やっと一つの仕事をやり終えたな、と安堵します。
 旧約聖書には、モーゼが、約束の地イスラエルに辿り着く前に、異国の地で臨終を迎えますが、その直前に、自分が死んだあとの、お骨の処遇について指示をしたという記述がなされています。
 遙か昔、数千年以上前、人類は既に遺言を残していましたし、現代のACPに通ずる取り決めをしていたのですね。
 「逃げきれた夢」では、認知症になったときの物忘れなど症状のこととかはあまり出てきません。それよりも対社会、対家族、対友人の関係性について、男性が陥りがちな孤独やコミュニケーション不足のことがクローズアップされていました。
 これは決して他人ごとではありません。
退職したりして、それまでの人間関係が一気に無くなりますと、特に男性は、「毎日、毎朝規則正しく行くところ」が、無くなりますので、人と会話することが減ってしまいます。
一つ屋根の下で生活している妻や子どもさんがいればまだしも、居なければたちまち独居の高齢者になってしまいます。
 やはり、日常生活をしていく上で、「会話が成立する家族や友人、隣人、知人」の存在は大切です。
 これは、男性だけではなく、女性にも当てはまりそうなのですが、もともと女性のほうが、会社などの勤務しているところの人間関係だけではなく、居住しているところの管理組合や地域の集まりに参加していることが多いのかな、と思います。
 それで、たとえ、会社や事業所などの勤務が解かれても、直ちに孤独になってしまうことは男性に比べて、その割合は少ないのではと推測します。
 映画では、今までの人間関係を見直し、「自分が受け入れられる」ように、態度や物言いの仕方を改めようと懸命に努力し始めるところで、幕が降りました。 そうして光石研さんが歩く背中がクローズアップされて、あとは何だか曖昧な光が漂う画面が続いて、映画自体もフェードアウトしました。
 視聴する私たちに、これからの主人公に、変貌する予感めいたものを感じながら、あるいは、もうどうしようもなくなり、それでもなお生きていく主人公に私たちの思いを投影しながら、さあ、これからどうなっていくのでしょうねと、推理する、憶測する楽しみを残してくれていったような、そんな感想を持ちました。
 さてさて、私たちは、これからの人生を意味のあるものにするために、何から取り組んでいくのがいいのでしょうね。
 久しぶりに、緊迫した一人芝居のような良質な劇を観ることができました。
カメラワークが独特で、サラッとしているのですが、でも粘り着くような映像が、記憶に留まっています。
 再度観るためには、こちら観る側が、体調を整え、深呼吸をして、居住まいを正して、そうして、ある意味緊張して観ることが求められますね。
 良質だけれど、緊張する、そんな映画であり、後世に残るものでしょうね。
 この映画を監督した二ノ宮 隆太郎という脚本家、監督に注目して、これから大いに期待したいですね。

主演の光石研さんは、黒崎の出身で、女優の吉本実憂さんは北九州の出身、さらに松重豊さんも福岡の出身で、西南女学院高校の校舎、北九州フィルムノアールスタッフの実家が門司の海が見える主人公が住む家、と全部北九州尽くしです。

大分合同新聞の記事に、同調圧力のない社会を是と考えます。

今日は大分県直入町の長湯温泉に来ています。旅館の内湯に浸かり、サッパリして図書室にて大分合同新聞を読みました。そこには「迷い道」と題するショートコーナーが記載されていました。「つながりながら縛らぬ」町として、徳島県南部の海洋町で育ったある女性のことが記事になっていました。「10年ほど前に、自殺の発生率が全国で最も低い自治体」として一躍脚光を浴びた、その町を若い頃はそんなにいいとは思っていなかったそうです。

 その町は、「近所づき合いは活発だが、べたべたしていない。困っている人がいれば、手助けし、人にも遠慮なく助けを求める。「右へ倣え」を嫌い、人と違っても排除されない、年長者は下の者に威張らない。」とこの記事は書いています。

「自分が納得できる理由がなければ同調しない。他者に左右されない頑固さは、裏を返せば自由な雰囲気の源でもあった。女性は京都で作業療法士として働くことになったが、そこで WRAPというプログラムに出会った。メンタルヘルス(心の健康)の回復プランから生まれたもので、・・・、人生の主導権を医療者から取り戻そうという動きでもある。」そうです。

「・・カンファレンスは医療者だけで行われ、患者不在のまま処遇が決められる。」病院の現実に嫌気が差したのでしょう。この女性は出勤できなくなり、休職し、鬱状態になって自宅に引きこもったということです。結局病院は辞めて、今は神戸の訪問看護ステーションに勤務している。「ただ、そばにいる」というケアのあり方を考えるようになったそうです。

 困っているときは助けるが、でも生き方を決めるのは結局の所自分しかいない、という考えは、実は故郷の、「繋がりながら縛らない」という海部の人たちが大切にしてきた価値に似ているそうです。理想の職業観は故郷の原風景に刻まれていた、そのことにようやく気づいたということでこの記事は締めくくられています。

 同調圧力が大嫌いな私ですから、この記事には大いに賛同します。同時に、日本という国で、同調圧力が強い所には住みたくないな、とそのように思います。

 やはり、文化がない田舎よりも文化溢れる都会のほうがいいのでしょうか。多様な価値観が大事にされるところ、そこを希求していきます。

 でも、どうして、徳島の田舎の町、海洋町は、同調圧力がないのでしょうね。不思議です。

いろいろ調べてみました。するとちょっと特殊な町の成り立ちがあり、そこに集う人々が形成している社会が、日本の通常の社会とは異なることが判ってきました。そのあたり、もし興味がある人は、この記事を読んでみてください。とても面白い論文だと思います。

シンポジウム 第 43 回日本自殺予防学会総会 シンポジウム 自殺と社会

自殺希少地域・海部町の 「つながりつつも縛らない」という選択

関心と監視の違いに着目して岡 檀

              統計数理研究所医療健康データ科学研究センター

OKA Mayumi

 

大分合同新聞、2023年6月16日の記事から

 

大分に来ています。LPレコードを置く素敵なレコード店を見つけました。

大分市クラフトビール直販店で。岡垣町に本店があるそうです。

 

大分市の商店街、ETO NANKAIDOというレコードショップに行きました。

大分に来ています。

アミュプラザ大分は面白いところです。一つ一つの店がそれぞれ自己主張しているんですが、それが全体として、個性のある空間になっています。

ただ、レコードショップが無かったので、インフォメーションで訊きました。

大分駅から続く、セントポルタ中央町の中程にETO NANKAIDOというショップがあるとのこと。駅から歩いて10分くらいのところ、商店街の中程の所にありました。覗いてみました。

 ピエール・ブゾンというピアニストの弾く、ピアノバラード「ラ・ヴィー」という2枚組のLPレコードを購入しました。少し盤面が反っているとのことですが、なに、音がちゃんと出れば問題ありませんからね。

 ブゾンというピアニストは、昔帝国ホテルのラウンジなどでピアノを奏でていた人らしい。このレコードは、ずっしりと重く、パリの街角を切り取ったかのようなジャケットが素敵です。ほとんどジャケ買いしてしまったと言われても仕方がない、そのようにして今手許にあります。

 今はもう夜も10時を廻っていますので、明日の朝、持ってきたポータブルのレコードプレーヤーにかけて、菅野置彦という伝説の録音担当の凄腕の仕事ぶりを体感してみたいと思います。

もう1枚は、「ポートランドのキーボード奏者、ダン・シーゲルが1982年にリリース。当時フュージョン旋風が起きた爽やかな作品。LARRY CARLTONがギターで参加!
W/OBI,ライナー付き.」というものです。

 これもほとんどジャケ買いでした。アメリカ西海岸を連想させるような、アメリカの白人の女の子の水着の後ろ姿。これはやられました。

 あのマーリン・マクレインやラリー・カールトンがギターで参加しているからには、きっと気に入るに違いありませんからね。

 なかなかよいお店にあたりました。

大分駅に向かって帰っていましたら、レンガ造りの建物が道の向こう側正面にあるのが目に入り、脇道に入りました。すると、クラフトビールとソフトクリームを販売している、ちょっと面白いショップを見つけました。そこで売られていたビールは、何と、福岡圏は遠賀郡岡垣町クラフトビールだったんですね。そのビールの中で、ヱビスビールに近い印象のものを買い求めました。

大分駅前は、空間がゆったりしていて、人もそんなに多くなく、すべてがユックリしています。せわしくなく動き回っていると言う印象は無く、余裕を感じます。

気持ちをピンと張りながら仕事をしているようなとき、ここに来るとだいぶノンビリして、生活のスピードも抑え気味になりますので、かなり気持ちの上でリラックスできます。

イヤ_〜いいところです。 

 

ある日の緩和ケア内科外来・・

田川市立病院の朝、夜勤の看護師さんがスマホでパチリ

ある日の緩和ケア内科外来・・

ある基幹病院から紹介されてきた母と娘のお二人。

外来の部屋に入っても、何だか落ち着きません。

私は、外来に入ってこられてお二人に、こんにちは、緩和ケア内科の◎◎です。

宜しくお願いします。

今日来られたのは、なんとお呼びしますかね、◎△□◇さんですね。ご本人ですか。

ああ、そうなんですね。

それから、隣におられるのは・・、そうですか長女さんですね。

本日は、わざわざ来ていただいてありがとうございます・・・、といつものように外来を始めようとしましたが・・

 うん?何だか雰囲気が・・、挑戦的な視線だし、弱ったな〜と思いました。

それでも気を取り直して、最近オンラインで始めたばかりのwhole person careのテキストにも確か書いてあったぞ、・・困難なケース、もうだめというような人が目の前に現れても決して投げ出すな、だったか、どうもちょっと違うような気がするが、でもそんな意味じゃないのかな、など考えまして、気を取り直し、外来を進めていきました。

 受診前に採血していましたので、血液検査の結果を見ました。まだ肝機能などの数値が出ていませんでした。

 私は、紹介されてこられる患者さんたちの半分くらい、あるいはもっとかな、かなりの割合で、ご自分の病状を正確には捉えていない、そんな現状を各地の緩和ケア内科外来で体験してきました。3年と3ヶ月近く、当地で緩和ケア内科外来をしていますが、やはり同じです。

 皆さん、血液検査や画像診断の結果説明をちゃんと聴いておられないのか、あるいは医師がちゃんと説明しておられないのか、あるいは両方なのか・・。

 それで、ご自分の病状が理解できていないまま来てしまうと、そのかたがたが求めているQOLと緩和ケア病棟側が提供できることとのギャップが生じてしまいます。

 それでは、満足した滞在とはならず、混乱の元になります。過去にそういった騒動に巻き込まれて、ほとほと嫌になり、離職していった優秀な看護師さんたちを思い出します。

それではいけません。

私は、国や県や地方自治体から託されている、貴重で数少ない「緩和ケア病棟の病室」を、ちゃんと病状理解しておられて、真に希望しておられる方がたに利用していただくことにしています。それは病院の貴重なスタッフを守ることにも繫がります。

 それで、提供されていた画像、その中でも私が重視している頭部、胸部、腹部、骨盤のCTを、実際に見るのはその時が初めてになりますので、「さきほどいただいたCTの画像の取り込みが終わりましたので、一緒に覧てもいいでしょうか?」とお断りをして、覧ました。

 すると、あとで確認したのですが、その病院の放射線科の読影結果には記載されていないところが見つかりました。

少量の胸水ですね。ごく少量ですのでまだ症状としても顕在化していない様子です。

 独り言を言う癖というのでしょうか、心の声がつい出てしまい、胸水ですね、咳とか息苦しさはありませんか?とお訊ねしました。 すると、「え、胸水なんですか?ワ〜、やっぱり、こんなところに来なけりゃ良かった。」とご本人だけではなく隣に座っている娘さんまでもそんなことを言うのですね。大声で。遠慮というものがありません。

いえね、ここ筑豊に来て3年と3ヶ月、もう当地の人々の直截な物言いには慣れたつもりです。つもりだったのですがね、それにしても、ね。初対面の医師に向かって、「来なけりゃ良かった、」とはね。ね、ね、そうお思いになるでしょう?え、そうではないって?

 そんなことはあたりまえ、そうですか、それは失礼しました・・。

 私はもともと堪忍袋の緒がとっても小さいのですね。すみませんね。

それで、「あ、そうですか、お帰りになりたいのであれば、いいですよ、どうぞお帰りください。では、これで終了しても宜しいのですね?」とお話ししました。

 「あ、でも折角先ほど血液検査をしてもらいましたたから、その結果の説明を聞いてからでもいいのではありませんか?」と申しました。

 それでPCで画面を呼び出しました。その数値を見て、私の判断ですが、と前置きして、

「先ほど、5月に◎科の先生から、外来で、あと6ヶ月は生きられない、と言われてしまったとのことでしたが、私はこう思っています。それは神様でも判らないことで、生きようとする本人の意志と身体の具合とで決まることであって、あなたがまだまだ生きたいと願うのであれば、人知を超えてそうなるのかもしれません。あなたはどう思いますか?」と伺いました。

すると、「そうなのよね、私はね、あんな先生、見返してやるんだとそう思っていますよ。」「まだまだ死ぬ気にはなれませんからね。あと3年は生きて、そしてあの先生に会いに行くんだから。」と意気軒昂です。

 いや〜、こんな患者さんに来られても、その先生は驚くだろうし、迷惑なんじゃ〜ないのかな・・と思いましたね。

 それで、それを聴いていた娘さんがけらけら、といいますか、豪快に「ワッハッハ〜」とそれはそれは大きな笑い声で、病棟中に響くようなけたたましい声で、愉快そうです。

 あれ、何だか風向きが変わってきましたね。

それからは、「もう帰る、」とむくれていた同じ方とは思えないような、実にフレンドリーな方に印象が一変しました。

 いまでも、どうしてそうなったのか、判りません。横にいたクラークの◎さんも、どうしてですかね〜、と首をかしげていました。

 思いますに、病状を理解したくない、がんなどの命を脅かすかもしれない事態を、ほおかむりしてやり過ごそうとする、あるいは「これは夢なんだ、そうだ夢だ」と思おうとするヒトが結構いらっしゃる、そんなことなのではないのかな。

 それで、その先生も、見るに見かねて、それで、ボツッとあと半年は生きられないんだから、ちゃんと考えましょうね、とそういうことでそんなことを仰ったのではないのかな、なんて考えました。

 私はこう考えていました。「ウン、それはお怒りになるのは判るな。それで怒ったままここに来ちゃったんだね。こうしよう。今そこに居るこの患者さんの、今、にフォーカスしてみましょう。この方が何故怒っているのか、そこに焦点を当てて、いわば気持ちに手当してみましょう。そうしたら、何かラポール(関係性)が産まれてきて、そうしたら、この患者さんや娘さんと良い関係状態になれるのかもしれない。よーし、ここは頑張るぞ。へこたれないぞ。」ってね。

 黒澤明監督が描いたあの「羅生門」という映画の凄さ。皆さんご覧になったことがありますか。

 誰がウソをついているのか。はたまた全員がウソをついているのか。物事は多面体ですので、ある一方から光を当てても、それは真実を映し出していることにはならないのだな、とは、あの映画を劇場で観た若き日の私が考えたことでした。

 なんにせよ、ガッカリして、あるいは怒って、私の外来からお帰りになるところだったのが、今では「ここに来て良かったわ。先生またくるからね。そうね、小早川って言いにくいから、コンバインと呼んでもいいかしら、うんそうしようっと」ともう私の渾名までつけちゃっています。

 大ドンデン返しで、上機嫌でお帰りになりました。良かった、良かったですが、さて次の外来は如何しましょう、ね?

 「また、何か辛い症状かなにかがあれば、クラークの◎さんにお電話くださいね。」

何とか、1時間の外来枠にぎりぎり収まりました。

 さて、次の方、

◎△さんをお呼びしましょうね。

どうぞ、お入りください。

あ、初めまして、私は当院の緩和ケア内科の◎△です。

宜しくお願いします。・・・

このようにして、初めて会う方々の機嫌をできるだけ損なわないようにして、かなり神経を使いながらの外来が続きます。

全ての外来が終わってから、紹介してくださった各病院の先生方に『診療報告書」を作成し、その日のうちにFaxで送信し、郵便で原本を送付します。

 それで緩和ケア内科外来が4時、5時に終了しても、その後のプログレスノートへの記載や先生方への返信などで1,2時間は軽くかかります。それから、緩和ケア病棟での夕方の回診、それにご家族との面談、これがまた時間がかかります。

自室に戻り、決裁書類に目を通し、サインし印鑑をつき・・そうしている間にも、「先生、薬が切れます・・先生また痛がっていますので、持続皮下注射の中身の変更を・・痰がたくさん出て苦しがっています、ハイスコの注射箋をお願いします・・先生、◎さんの遠いところに住んでいるご家族が、病状の説明を求めて、今突然来られました・・先生・・先生・・」と引っ切りなしです。

 私一人しか、緩和ケア内科には在籍していませんので、少なくともあと一人は、必要ですよね。

神様、こんな私を憐れみ、助け手を派遣してください。伏してお願いいたします。

北九州市立美術館、戸畑のランドマークについて

エントランスに導く階段

北九州市戸畑区にあります、「北九州市立美術館」です。
3階のエントランスまで、階段でもエスカレーターでもいいので、上がって後ろを振り返ってご覧下さい。
こんな雄大な景色が拡がっています。初代館長は元北九州市の名物市長さんだった、谷伍平さんでした。
常識に囚われていない、想像する心を感じる建物を拵えました。
そこここに彼のセンスの良さを感じます。
エントランスまでの独特のアプローチは、何度行きましても新たな感動を覚えます。
彼は直方のご出身で、海軍士官として、若い時に欧州などの近代国家を視察なさったのであろうなと勝手に想像しています。
公害都市だった北九州市を蘇らせ、今ではイノベーションの拠点になっていますものね。
彼は並の政治家ではなく、時代の先取りをしていた、やはり異端児だったのではと思います。
建築界の異端児、安藤忠雄さんも、若い時にヨーロッパの建築を見ておられます。そしてやはり、それまでの建築の常識を打ち破る素晴らしい建物を世界各地に建てています。
「仕事は自分で創る」と今でも凄いエネルギーでもって、自己実現されています。
この方たちを見ますと、誰に遠慮すること無く、バイブルにあるたとえ話のように、「自分に与えられた天からのタラント(才能)を2倍にも、5倍にも、10倍にもして、神様に返す」、それが人間が本来与えられている、天からの使命なんじゃないのかな、とそんな気になりますもん。
それにしてもこの階段からの見晴らしは素晴らしい。
 
  • 北九州市立美術館、エントランスまで昇る階段の途中から
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あなたは、ご自分のお葬式とお骨の行く末を考えておられますか?

今日はいつもにも増して、ちょっと気の重たい話題に行こうと思います。このところ自分の人生の終わらせ方について、そうですね、世間では終活といわれていますが、あれを考えています。少し長くなりますがお付き合いください。
 
今朝、仕事場の机の中を整理していて出てきたお手紙から、アメリカ人の男性と可愛い息子さんの写真がハラリと落ちました。
 以前、福岡市のとあるホスピスに勤務していましたとき、患者さんの娘さんを通じて、その夫である、一人のアメリカ人男性と知り合いました。その方です。
彼もまた癌に罹患し、アメリカで治療中でした。義理のお義母さんの病状を心配して、わざわざ福岡の地にやってきていました。息子さんを連れて。穏やかでとても優しく、笑顔が素敵なナイスガイでした。
娘さんは、丁度その頃、アメリカ合衆国で、メソジスト教会の牧師に任命されたばかりでした。私が教会に出席していることをお話ししますと、アメリカ合衆国の教会のことを詳しく教えてくださいました。お母さんは緩和ケア病棟から退院でき、在宅で過ごし、緩和ケア外来への通院を開始しました。娘さん一家は、アメリカに戻りました。
私が西南学院教会で宣べた説教の原稿、それに私の使っていたオカリナなどを、夫妻に餞別として贈りました。
無事にアメリカの教会に届いたそのオカリナは今誰か演奏していますかね。
娘さんからはクリスマスカードなどが送付されてきました。その都度近況をお知らせしました。
「いつかアメリカに来ることがあれば、教会で演奏して貰えますか?」と嬉しいお便りを戴いていました。
 私は、床に落ちた写真を拾いました。そしてこう思いました。
「これは何かの啓示なのかもしれませんね。そうだ、いつかはと思っていましたが、来年辺り、元気なうちに一度、その教会にいってみようかしら。」と。
 そこで、日本におけるメソジスト教会の歴史などをGoogleで調べていましたら、福岡女学院メソジスト派ですが、そこのホームページからある記事に出
会いました。
そこから「オリブ山葬祭」についての西日本新聞の記事、そしてこの「おとむらい牧師隊」の記事に導かれたというわけです。
最近の教会はどこも高齢化が進み、人出が足りず、教会堂でお葬式をして貰えることがだんだん難しくなっていっています。

クリスチャンが経営するキリスト教式葬儀社

 

西日本新聞の記事です。
また、一般の葬祭場では結構な金額がかかるため、財力的によほどの余力がなければ、一般的に家族葬のような事になりがちですよね。
そうしたときでも、このような形で、「キリスト教式」でお葬式ができれば安心です。
 そして、もし教会堂でのお葬式が可能であっても、人出がかなり必要になるものですから、そうした人をケータリングしてくれるようなサービスがあれば、なおいいです。
 ご自分のお葬式、あなたは、どこで、どんな形式でしてもらいたいですか?

自分の生い立ちからの自分史、財産のこと、残していくもの、人などを記載できます。
私は、「My Life Binder」に記載を始めました。福岡の丸善でみつけたものです。A5サイズでコンパクトです。
そして書き方ガイドブックもありますので、どなたにでも記載はできますし、持ち運びも簡単です。そして、自分の近親者や先祖たちについての家系図への記載がやたらに充実していて面白いです。また自分のお葬式をどこで、どのような形式で行われるか希望し記載する欄が充実していて、誰に出席してほしいのか、あるいは逆に出席してほしくなければその氏名を記載し、葬儀の主催者にハッキリと伝えられるようになっています。これはとても面白いと思いました。大きな書店に行けば、終活のコーナーがあるものですから、ご自分で手に取って、気に入ったものを買い求めてみてくださいね。
 どのようなものでもいいですから、ACPを周囲の親しい方たちとして、ご自分のことを書き記し、どんな医療を望むのか、あるいは望まないのか、どこで生活するのか、最期は病院なのか、自宅なのか、あるいは療養施設なのか、あるいは、日本なのか外国なのか、旅先だのかなどなど考えて、記載しておくことで、家族や友人知人がとても助かると思います。
お元気なうちから、ご家族とゆっくり相談なさってみてはいかがでしょうか。
ちなみに、わたしは小言官兵衛で、とてもうるさいし、自宅で安らかな臨終とはいかないらしく、
私の子どもには、「お父さん、ボケたらいいところにいれてあげるから安心していいよ。それに死にそうになったら、どこかいい病院なんかを探して入れてあげるからね。」と言われてしまっています・・。(*^。^*)
どうしたものでしょうね。
 手紙から滑り落ちた一葉の写真、そしてそれに纏わる物語を書いてみました。皆さんの心にはどのように伝わったのでしょうね。
 私は、17,8年の時空を超えて、一気にあの時代にタイムスリップした気持ちです。さて、今夜、いただいていたアメリカのご住所に手紙を認めてみましょう。投函しないかもしれない手紙です。ゆっくりと筆を執ることにしましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

バッハオルガン曲集

電子オルガンの譜面台に佇むバッハオルガン曲集
このバッハのオルガン曲集は、私が福岡市中央区六本松にありました、九州大学教養部の医学部進学課程に在籍していました当時、天神の福ビルにありましたYAMAHAで購入したものです。
 学生会館の2階にありました、音程があちこち狂っていた、調律されていないグランドピアノでベートーベンやショパンなどを弾いていましたが、そのときに手鍵盤だけを使って弾ける楽譜なので、弾いていました。後年Wifeになる女性に会ったとき、生物学教室の上がり口、そこの階段の上に敷き、その上に座ってもらいました。やってきた教授から冷やかされ、何か言い訳していましたが、そんな青春時代の記憶が蘇ります。
 後年、大阪の淀川キリスト教病院に奉職していましたとき、新採用の職員の春の合宿で、六甲にあります神戸女学院大学の保養所で、そこのパイプオルガンでこの曲集のバッハの曲を弾いた記憶があります。
 当時は東淡路にありました淀川キリスト教病院の救急部で当直した翌朝は、新館の最上階にありましたレストランで、コンチネンタル形式のモーニングを、大阪の街並みを眺めながらいただくのがささやかな楽しみでした。
  そして、毎日のように、新館で人工呼吸器の装着が必要な患者さんを、地下の広い通路を通って、旧館の2階にありました、私が管轄していた集中治療室に移送し、筋弛緩薬や鎮静薬を用いながら挿管して、当時最先端のスウェーデン製などの人工呼吸器に繋ぎ、24時間管理していました。 
しかし、私が赴任してすぐに、そこの師長さんや看護師スタッフがごそっと10数人、関東の病院に移りました。
 かなり前から、その看護師さんたちは反旗を翻していて、そんなこととは知らされずに来てしまった私とあとを託されてしまったスタッフは、とても困ったのでした。
 当時の師長さんは、集中治療のスペシャリスト、当時かなり有名な方で、東京の◎病院という、これまた超有名な病院に移りました。「ごめんね先生、でも行くわね。」と部下を連れて、あっさり行ってしまいました。この曲集を見るにつけ、そんな記憶も蘇ります。 私はこの病院にずっといるつもりで、九州を後にしたのでしたが、戻ることになりました。当時の白方先生は九州大学医学部の大先輩であり、元神戸大学助教授だった方で、ひよっこだった私を鍛えてくださいました。
 九州に戻る前に、幹部スタッフと私の送別会を吉兆でしてくださいました。「大学で学位を取ったら、また戻ってきてくださいね。」と温かく送り出してくださいました。
 その後、学位を取る寸前のところで、「学位は、私には必要ない。もともと自治医科大学に合格し、そこに行こうとしていた私なんだし、天草で開業した祖父に、そしてそのあとを継いだ叔父のような市井の医師が似合っている。一臨床医として、思うようにやっていきたい。」と、当時異端だったホスピスの世界に身を投じたのでした。
 独立行政法人 国保旭中央病院で、1学年30名、2学年で70名の研修医を指導しましたが、その際に全国から公募、試験を経て採用された、超優秀な研修医たちに、東京大学からのたすき掛けの研修医たち、それに自治医科大学の卒業生たちが加わっていました。
 ある学年の研修医は全国で10番以内に3名入っていましたが、そのトップは自治医科大学の卒業生だったA君でした。彼は緩和ケアに興味を示し、私の元で3ヶ月間働いてくれました。素晴らしかったですね。
 研修医たちの卒業式で、彼が述べたスピーチがまた素晴らしかったです。彼はこう言いました、「皆さんと一緒に研修医生活を送れましたことは私の一生の宝です。皆さんはこれから大学や他所の病院などにそれぞれ進んでいきます。私はここに残り、千葉県の地域医療のために頑張ります。医学博士を取ることは私の目標ではありません。皆さんはおそらくその道を目ざしていくことになるのでしょう。私とは進む道が違ってきますが、患者さんやご家族のために私たちが存在しているのだということを忘れないでやっていただきたいな、そう思います。私たちの医師としての原点は、ここ、旭中央病院です。10年後、20年後、そして30年後にここで同窓会をしましょう。皆さんが戻ってくるのを楽しみにしています。」と、総代、そして全国トップの成績だったことを祝される会で挨拶しました。
 感動のスピーチでした。
当時単身赴任していた医師マンションの自室に戻り、この曲集を開き、バッハのト短調前奏曲などを弾いたことでした。
 A君のような医師が、私の前に現れて、一緒に仕事ができればいいなと願う今日この頃です。(😊)
 
 
 
 
 
 

 

自由に考えるということ

春日市民図書館の開架図書

人の一生は、本人が満足したものとなるには、短すぎます、かといって、長く生きていればいいかというと、それもちょっと違うなと最近思っています。

 要は、この世におけるポジションが大事なのではなく、どれだけ満ち足りた思いを感じることができるか。

 旧約聖書のコヘレトが言うように、「すべては空しい」のですが、その中にあって、真に信頼できる、そのような事象に出会えれば、本望なのじゃないのかな。

 信仰者であれば、その対象は神様になるのでしょうが、たとえ何も信じるものが無くっても、それはそれ、自分の一生のうちで、心が震えるほどの体験を一つでもすることができれば、それがその人にとっては何よりも大切なものになるのではないのかな。

こんなことを考えるようになったのも、やっぱり、我が父、峻烈だった父の影響だと、最近つくづくそう思います。

 若い時はなかなか理解ができませんでした。その思想に追いつかなかったです。

 でもこの年になってみますと。なるほど、そうだねお父さんと合点することが多くなりましたね。

 ルーティンの仕事のことではなく、生涯をかけて、自分の為に成し遂げなければならない、もう一つの仕事のことです。 それは、私にとっては「自由に思考すること」「規制されないことをファッションにしたい」、そういったことですね。言ってみれば、思想界のピーター・バラカンになることです。

 誰にも邪魔されず、思考することは自由です。その自由さを下敷きにして、今宵も思いっきり哲学してみましょう。

現世や後世で、私がどんな評価を受けるかには、全く興味がありません。

 そんなことよりも、自分の気持ちに正直に生きていたいし、著作でならば、評価されてもいいかな、そのように思います。

最近、日本では生きにくくなったな〜って感じています。いえね、私が高校を卒業した和暦で昭和47年、西暦で1973年当時からこれまでずっと抱いている、日本の社会への違和感です。何かしらみんなと同じようにしなければいけないと思わせる、同調圧力ですね。あれがね、私は苦手です。
 オーストラリア、メルボルンで感じた自由でフランクな気風、イングランドの田園地帯で感じた、ある意味何歳からでも何かをはじめることが当たり前だとする社会、自由な発想と、自在なアレンジ。
 もうそろそろ、この世にあるうちに、何か自分らしいことにチャレンジしたいですね。
それが何なのか。仕事が医療者だって、違うことをしてもいいじゃんって発想が、そもそも「異端児」たる由縁なのでしょうね、きっと。もっと自由な発想を。
 ビートルズユーミンもある意味、その時代の異端児だったのですが、彼らは「そうしたいからそうしている」だったのじゃないのかな。
 後世の人たちが、勝手に理屈をつけているだけで、本人たちは「やりたい音楽をやっている、ただ、それだけ。」だったのではないのかしらね。
  現在日本にあっては、「やりたいことことやる」ためには、社会の中でそれなりのポジションが必要だと思いがち。団塊の世代が、現役のときにはできなかった何かをしに、社会に溢れています。そのエネルギーは凄まじいのですが、誰かの為にだけではなくて、そろそろ自分自身のために時間を使ってもいいのではと、そう考えます。あまり自己規制せずに、時には前に進むことも、殻を破っていくためには必要なこと。そして、世人に憚ること無く、自分の主義主張をなさる、それでいいのではありますまいか。あのターシャ・テューダーさんも、「年を取れば、思った通りに生きればいいのよ」と仰っていますものね。
 ピーター・ヴァラカンさんだって、有名な会社から追われても、自分の信念は貫き通すし、結局はそれが今では開花してますものね。余人は知らず、私はそこを高く評価します。 
そんなことを考えるときに、私が行っているのが、各地のハイブリッドな図書館です。最近の図書館は昔と違い、文献検索のプロフェッショナルがいらっしゃって、そこになければ、他の図書館の蔵書なども検索してくださいます。私に取りまして、思索の糧となるような著作や文献にあたるときにとても重宝します。またいろいろな図書館の建物や蔵書の展示の仕方なども観る楽しさがありますね。飽きないです。今回のブログにつける写真は、そうした図書館の一つで、「春日市民図書館」です。ここは福岡圏にお住まいの方であれば、他の市や町に居住していても本などを貸し出しできる、ある意味太っ腹な図書館ですね。とても気に入りました。そして、静かに読書するのに適したスペースがそこかしこに設えてあり、思索するにはピッタリですね。そうですね、思索するにはテレビ、ラジオなどは消して、本の文面に没入し、行間をも読み解きながら、読み進め、そしてただ読んでいるだけではなく、そこに自らの思考を反映させ、沈殿させる、そういった豊かな時間が必要になります。PCばかり、スマホばかり視るのではなく、日常的に「繫がらない生活」を取り戻すことが、喫緊の課題です。いかにしてメディアから遠くに離れていることができるのか、それが真に有用な思索に耽ることができるか否かの分岐点だと思っています。こんどまた山に行きますが、できるだけ文明の利器からは離れ、山の息吹に全身を浸らせ、野生の気を取り戻そうと思います。
 
 
 

吉野ヶ里町の古民家と卑弥呼伝説や太古の渡来人のこと

昨日は旧三田川町、現在の吉野ヶ里町に義理の母のお墓掃除に行って参りました。Wifeの妹夫妻と私たち夫妻と、4人で、心を込めて、綺麗にしました。苔のむすそのお墓が、ピカピカになりました。
 近所に住む方がペットボトルのお茶をお供えしていました。また、もともと飾ってある造花に加えて、今日は生花も買ってきていたので、それを墓前に捧げました。
 お義母さんも喜んでくれたと思います。
 お昼は、以前住んでいた古民家で、今はレストランになっている家で、いただきました。近所の悪ガキだった子が京都吉兆で修業して、戻ってきて、地元で有名な日本料理のお店「はせ川」を出しています。予約が何ヶ月も先まで埋まっている、そんな超人気のレストランです。私たちは3月に予約していました。
 

佐賀県吉野ヶ里町の古民家レストラン「はせ川」

 

「ここが以前仏間だった所かな。」「ここは勉強部屋だったわね。」「ここは土間だったところね」と懐かしむことができました。庭の梅の木などもそれぞれ大きく育ち、立派になっていました。
  吉野ヶ里公園として綺麗に整備されているところから、そんなに離れていないところですので、私は「皆さんは、渡来人、弥生人の子孫なんでしょうね。どことなくスキッとした顔立ちだし、スタイルもいいですもんね。そこに行くと天草の叔父貴も保障しているように、私たち中村家のほうは、縄文人って感じかな。」「それにしても、卑弥呼のいた時代、稲作が行われ、高度な自治政府があり、大陸にもその名を馳せていたのは、ここ佐賀県吉野ヶ里や、福岡県の志摩半島から続く平野部で、おそらくはそこに渡来していて大陸や韓半島からの、いまでいうところのインバウンドの方たちがたくさんきていたのかもしれないですよね。その頃関東には何もなかったし、畿内には豪族がいたのでしょうが、志賀島から出土した「漢委奴国王」と記された「金印」は出ていないですしね。そう考えると、卑弥呼は、ますますこの辺りにいたのではないのかな・・」など自説を開陳したことでした。
 それにしても、あの古民家が、ここまでお洒落な日本料理店になるとはね。驚きです。
 その後、Wife夫妻の住む神崎のお家に移動しましたが、そこも室町時代以前から続く農家の古民家で、都会育ちの私には、垂涎のお宝のようなお家です。義理の弟とはJazzという共通の趣味があり、毎回行く度に、ちょっと他所には無いような、あっと驚くアルバムのCD-Rを「お兄さん、これ、いいですよ。良かったら聴いてみて」といって渡してくれます。それで刺激されて、夕方からは背振山を超えて那珂川市に入り、そこから南区、中央区天神にまで足を伸ばし、パルコ5階の「タワーレコード」に行きました。
 馴染みのレコードコーナーで、1枚購入しましたが、そこには数名の韓国の男女がいまして、彼らも、LPレコードを購入しようと真剣でした。二千数百年以前の昔、彼ら韓半島のご先祖様たちも、福岡や佐賀までやってきて、そこに住んでいた縄文人弥生人たちとミックスして、私たちのご先祖様たちのハイブリッドたちもこの世に出てきていたのでしょうね。そう考えますと、歴史のロマンを感じます。
 夕食は、ソラリアプラザ6階のレストラン街にこの頃オープンしたばかりの「小籠包」のお店で。台湾混ぜご飯と小籠包が本格的で、ご馳走でした。ここにも韓半島からのカップルや家族がたくさんいました。
 「オッパー〜。オッパー〜「と叫んでいる可愛らしいお嬢ちゃんもいて、お兄さん〜お兄さん〜、どこに行ったの〜と言っているなと、理解しました。女性がお兄さんと言うときは「オッパー」でいいのですがね、「男性にはまた違う言葉が用意されているので、よくわかったわね。それに発音がいいわよ。」と、韓国政府が認定する「韓国語能力試験」の中級合格者である、Wifeから褒めていただきました。
 やはり、お隣同士ですもんね。仲良くしましょう。
 佐賀平野に連綿として続いている豊かな暮らしと、福岡市天神のインバウンドで賑わう一帯の活気に触れる一日でした。

野鳥の飛翔、香春岳、福知山の雄大で美しい景色、癒しの源泉です。

緩和ケア病棟から、南側の眺め。英彦山、川、人々の暮らしの風景・・

香春岳、福知山を望み、英彦山川に佇むの絵

今朝も野鳥たちの鳴き声で辺りは満たされています。人の営みが始まる遙か太古の昔から、香春岳、福知山連山、英彦山、など山、川、野原の自然があり、その中を、イノシシや狸、イタチ、鹿などの野獣が駆け回り、空を飛ぶ雀やヒバリ、ホトトギスなどの野鳥たちが、自由闊達に飛翔していたことでしょう。

 そんな風景、音、風を日々感じていますと、自ずから気が晴れて、気分が伸びやかになれますね。

 私たちの緩和ケア病棟に来られて、「小早川晶方式 がん性疼痛治療法」を受けられて、痛みが雲散霧消していくのですが、それにも増して「気が晴れて」、病気の進行が一時的に止まったかのように見えて、自宅や新たな特別養護老人ホームなどに退院される方々が結構な割合でいらっしゃいます。

 皆さん、「奇跡です。」と言われ、屈託無い笑顔です。

そして、それぞれが生活なさっているところで、最期まで、暮らしておられます。

私たちの方から訪問していて、医療用麻薬を訪問調剤薬局に託したり、あるいは、モルヒネの持続皮下注射器をMEから貸し出し、訪問看護部門が薬液の詰め替えをしています。

 そうして、できるだけ、慣れ親しんだ環境で生活ができますように、本人やご家族とよく相談をして、調剤薬局やケアマネージャー、行政とも相談をしています。

 緩和ケア病棟スタッフの人間力と、田川、香春を取り巻く自然の力、それに太古の昔から続くもともとこの土地が持つ力、そうした力がこの地には漲っている、そのように感じています。 

 人は、生きる力を自然から得ていると思いますが、そうした力を取り戻すためには、山の気にドップリと浸かることが必要なんだなとおもいますね。

 私がときどき行っています、大分県直入町にありますBBC長湯のコテージのトイレには、有名な作家さんたちが書き残していったサイン画が掲げてあります。

 その中に、「・・・気を取り戻すために、私は、山に来る必要があった・・」と認めてあるものがあります。

 私も全くその通りだと合点しています。

ここに生息している方たちは、この風景が当たり前だと思っていらっしゃるのかも知れませんが、北九州工業地帯や福岡商業都市で専ら生活してきた私にすれば、当たり前ではなくて、何とも贅沢な風景だと言わざるを得ません。

 この贅沢で、伸びやかな風景を、守ってこそ、この田川や香春の良さを後世に伝えていける、そのように考えています。